ジェローム・ロビンスのバレエとアンリ・バルダ その2
(その1はこちら)
結局、私たちはすぐにバルダと仲直りした。
最初のアクションは、私の携帯にはいっていたバルダからのメール。
「もしかしてお前たちは今日(4日)の午後の後半に私に会いたいと思っているか?」直訳するとこんな感じになる。
次のアクションは川野さんの手紙。最大限に礼をつくしておわびの言葉を書き連ねたらしい。最後に愛のメッセージもふんだんに盛り込む。美術館見物に行くついでにバルダのホテルに持っていき、フロントに預けてくると言って川野さんはアパートを出た。
私は部屋に残って仕事のつづきである。グレン・グールド論の初校が出ていて、一応出発前に戻してはきたのだが、往生際が悪く、まだ推敲したりないところがある。PCを開いてゲラの写しに手を入れる。
そうこうしているうちに、バルダから電話がかかってきた。「アロー?」もう川野さんからの手紙を読んだかなと思い、「ヨーコは?」ときいてみたら、「ヨーコ? 何のことだ」とバルダ。彼女はそちらのホテルに行ったはずだが・・・と言いかけたとたん、バルダが「今、あっちのほうにヨーコが見えた」と叫ぶ。えっ、何それ。とにかく川野さんにかわってもらったところ、笑いながら、ホテルに手紙を届けたあと、道でばったり会っちゃったのだと言う。「私、いつもバルダとばったり会ってしまうのよね」。
このあたりの経緯を川野さんにきいたら、以下のようなことだったらしい。ホテルには運良く! バルダはいなかったのでフロントに詫び状を託し、スワロフスキーで妹さんに頼まれたお土産を買い、外に出て数歩き振り返ったら、そのスワロフスキーのお店の脇でバルダに良く似た人物が電話をかけていたという(電話の相手はもちろん私)。まさかこんなところで会うはずないよね・・・と思ったら手招きするので、駆け寄ったという。
川野さんはてっきりバルダが置き手紙を読んだと思っていたのだが、電話切った瞬間、「お前たちは何で大変な思いをして取った招待席に座らなかったんだ〜〜〜!!」とすごい剣幕で叱られて、返す言葉もなく「ごめんなさい、悪気はなかったの・・・」とくり返し、私のぶんまで怒られて大変だったらしい(スミマセン)。とにかくどこかでお茶することにして、ドイツ語のできない私でもわかるシュテファン寺院の前で15分後に落ち合う約束をした。
ところが、私がアパートを出て寺院のほうに歩いて行ったら、向こうからバルダと川野さんがやってくるではないか。どうも、方向音痴の私がちゃんとシュテファン寺院まで来れるかどうか心配になって、ケルントナー通り( オペラ座か らシュテファン寺院に通ずるウィーンのメインストリート)をゆっくり歩き、シュテファン寺院の手前を右折してアパートに向かったらしい。

川野さんの手紙を読んでいないバルダは、まだ渋い顔をしている。
バルダの提案で、シュテファン寺院の向かいにあるホテルの上階のカフェにはいった。カフェは込んでいて、しかもタバコの煙がもうもうにたちこめている。バルダはむせながら「フランスでは禁煙はあたりまえなのに何なんだここは・・・」と文句を言う。教会の塔がよく見える窓際の席に座り,バルダビールとソーセージ、私たちは焼きサンドのセットとコーヒーをオーダーする。
バルダはまだ昨夜の招待券のことをブツクサ言っている。どうしてお前(私のこと)は自分が電話したときにもうチケットを取ってあると言わなかったのか、せっかく事務局にかけあってよい席をおさえたのに、その席に誰もいないので本当に恥ずかしかった、etc,etc 。いちいちごもっともで、ひたすらあやまるしかない。でも、事務局は招待券をばらまいているから、座る場所に気をつけろと言ったのはそっちなのに・・・とかお腹の中では考えている。
気まずいのでサンドイッチにぱくつく。つけあわせのポテトフライがかりっと揚がっていておいしい。ビールにも合うのでバルダも手をのばし、ケチャップにつけてぱくぱく。少し機嫌がなおったかしら。
ぶつくさ言いつつ、バルダはカメラを出してシュテファン寺院や私と川野さんの写真を撮り、楽しそうでもある。笑いながら怒る・・バルダにはよくあることだ。
私たちはその日オパーで『ドン・ジョヴァンニ』を観ることになっていて、ボックス席のかなりよい場所をおさえていた。川野さんは普段着のまま出てきてしまったので着替えに帰りたいらしいが、私はただでさえ気まずいバルダと二人きりにされるのがいやで、このままいてくださいと懇願する。
『ドン・ジョヴァンニ』の開始時刻が近づいてきたのでカフェを出てオパーに向かう。バルダが、ウィーンの歌劇場は最新式で、正面の壁にスクリーンを設置し、チケットを持っていない人でも上演をみることができるようになっていると話す。たしかに、武道館を思わせる巨大なスクリーンが設置され、前にはベンチが置かれている。バルダとそのスクリーン前で別れ、劇場内にはいる。普段着で来てしまった川野さんは、ボックス席の場所を確認したあと大急ぎでアパートに戻り、ワンピースに着替えてきた。ウィーンのオパーの観客は割合に地味で、初日でもないし、それほど着飾っている人はいない。
留学時代にウィーンでオパーに通いつめた話は前回書いたと思う。ビルギット・ニルソンのイゾルデ、ペーター・シュライヤーのハーゲン、ギネス・ジョーンズのサロメとか、『ドン・ジョヴァンニ』ではフィッシャー・ディースカウの騎士長もあったろうか、とにかく豪華キャストだった。
今回の『ドン・ジョヴァンニ』も舞台はきれいだっだが、背景は写真だけとかずいぶん節約している感じだ。地獄落ちの場面も装置にお金をかけないのでまるで迫力なし。
指揮(Welner-Most)はすごくテンポが早く、序曲など荘重さが出ないし、歌手たちも早口言葉みたいになってブレスが大変そうだった。これが今の流行なのだろうか。
ドン・ジョヴァンニ役(Ildebrando D'Arcangelo)はよい声で、演技も自然、見た目もワイルドでかっこよかった。この役ばかりは、これなら女たちがほだされるのも無理はない、という気持ちにさせるようなワルの魅力がないとシラケてしまう。対して、ボケ役のレオポッロ(Wolfgang Bankl)はすごく肥っていて、久しぶりに歌手らしい歌手を見た思いがす る。この人もよい声だが、ドン・ジョヴァンニ役の声に似ているので、ときにかぶってしまうことがある。
男性陣に比べて女性陣は見劣りがした。ドンナ・エルヴィラ(Malin Hartelius・スウェーデン) はまだいなせな感じでよかったが、ドンナ・アンナ(Camilla Nylund ・フィンランド) はまったく声が出ていなかったし、コロラトゥーラの音程も不正確。これで、今シーズンのウィーンのサロメやアラベラを歌っているというから、ソプラノはよほど人材不足なのかと思ってしまう。
ツェルリーナ(Ilena Tonca・ルーマニア) も声が何だかぱっとしない。「お手をどうぞ」のアリアなど、かわいらしい魅力がなければ効果がないだろう。それでも、ウィーンのオパーの聴く者を包み込むような音響はすばらしく、堪能して帰ってきた。
この日の晩ごはんは前日の残りのターキーをきざみ、ズッキーニとトマトを加えたソースをつくり、ペンネにかけていただく。他にハム、ウオッシュチーズ、ピクルスなどをつまみに、オーストリア産赤ワインで乾杯した。
食事中にバルダから電話がかかってきた。何と、チケットを持っていなかったので、劇場の外の大型スクリーンでずっと観ていたのだという。ドン・ジョヴァンニは好演だが、ドンナ・アンナは声が出ていなかったし、音程も悪かった、地獄落ちの場面はまったく恐怖不足だった・・・と、同じような感想を言う。お前たちを驚かせるために終演後入り口で待っていようと思ったのだが、あまりに寒かったので最後の6重唱の場面の前で帰ってきてしまったという。そのくらいならチケットを買えばよかったのに。ホテルのフロントから川野さんの詫び状を渡されたらしく、ヨーコの手紙に感激している・・・というので川野さんに電話をかわった。作戦成功!
5月5日はロビンスのバレエの2回目の公演がある日だ。昼間はウィーンの美術館巡りである。まず、「黄金のキャベツ」の異名があるセセッションにクリムト「ベートーヴェン・フリース」の壁画を見に行った。

「ウィーン分離派」の第14回展覧会(1902)に出品された壁画で、ベートーヴェンへの賞賛の念を示すために構想されたという。楽園の天使たちの合唱をバックに接吻をかわす男女の姿は、第九交響曲の歓喜の合唱のテキスト「この接吻を全世界に」からとられたとか。展覧会の終了とともに破棄される運命にあったが、美術コレクターが購入し、1903年の分離派第18回展覧会のあと、8つの部分に切り分けて保存された。
音楽が聞こえてくるような壁画なのかなと思って観たのだが、部屋そのものに風情がなく、とてもミケランジェロの『最後の晩餐』とは比較にならない。クリムトの装飾的な図柄や繊細な線、金箔や螺鈿細工を駆使した手法は、ベートーヴェンの無骨で壮大な音楽とはあまり相いれないように思われた。これはちょっと期待はずれ。
逆に期待を上回ったのが、新王宮の美術館である。留学生時代に市立の歴史美術館には通ったが、新王宮のほうは初めてである。いくつかある博物館の中で、エフェソス博物館と古楽器博物館に行った。
エフェソスには思い出がある。新婚旅行でギリシャに行ったとき,エーゲ海クルーズの一環としてエフェソス観光が組み込まれていた。エフェソスは紀元前11世紀に古代ギリシャ人が建設した都市国家で、現存する古代ギリシャ文明最大の遺跡である。とくに、乳房をたくさんつけたアルテミス像は有名だ。
都市遺跡はポンペイを巨大にしたようなもので、柱が立ち並ぶ石畳の道を歩んでいくと、左右に古代の円形劇場とか神殿、広場や浴場跡、美しいタイルや壁画で飾られた住居跡など次々にあらわれて、壮観である。当時はまだ発掘途中で明らかになっていない部分が多かったようだが、今は全貌をあらわしたのだろうか。


オーストリアの考古学者がこのエフェソス発掘にかかわっているようで、当初からの写真がずらりと展示されている。壁には遺跡から発見された彫像やレリーフが飾られ、ちょっとした神殿体験ができるようになっている。これは非常になつかしかった。
古楽器博物館にはヴァイオリンや管楽器と並んで、チェンバロやオルガン、フォルテピアノ、ウィーンの銘器ベーゼンドルファーなどの鍵盤楽器もずらりと並んでいる。さすがにウィーンで、有名作曲家の名前がバンバン出てくる。モーツァルトがロンドンで弾いたと言われる1775年製のペダル・チェンバロ、ベートーヴェンが使っていた1800年製のヴァルター。ローベルト・シューマンとクララが結婚したとき、コンラート・グラーフがお祝いに贈ったという1839年製のコンラート・グラーフなんてのもある。これはのちにブラームスが譲り受けたそうな。
いずれも鍵盤の上にはプラスチックの覆いがかぶせられ、音出し禁止なのだが、下から手を差し入れるとタッチの感触ぐらいはわかる。昔のピアノはシングルアクションだから指のひっかかりがなく、ストンと落ちる。近代ピアノ奏法はひっかかりを計算しながら弾いているから、ストンと落ちるとびっくりする。これでシューマンを弾くにはずいぶんコントロールが必要だったろう。本当は弾いてみたかったけれど。
出口でバルダに電話して、出てこないかと言ってみたが,稽古で抜けられないという。午後はベルヴェデーレに行くと伝えて近くのイタリアン・レストランに昼食をとりに行く。キリッとした白ワインで乾杯。前菜はイタリアのソーセージ・サラミの盛り合わせ。付け合わせにオリーブ、ドライ・トマト、パプリカ。メインはラザーニャ。パリでバルダの行き付けのイタ飯屋で食べたラザーニャが冷たかったのを思い出す。こちらはチーズがとろりと溶けて、熱々でとってもおいしかった。窓の外を観光用の馬車が通っていくのを長めながらゆっくりと食事をした。
食後はベルヴェデーレにクリムトを観に行く。代表作の「接吻」や「ユディットとホロフェルヌス」が展示されている。といっても,私も川野さんもさしてクリムトは好きではない。私はココシュカに見入っていた。クリムトもココシュカも、アルマ・マーラーと縁の深い画家である。風景画家の娘として生まれたアルマ・シントラーは、17歳のとき35歳のクリムトに恋をしたが、愛人だらけで身持ちの悪い画家のことを心配した家族によって仲を割かれたという。
アルマは1902年、22歳のときにウィーン国立歌劇場の音楽監督で作曲家のグスタフ・マーラーに見初められて結婚する。シェーンベルクに作曲を習っていたアルマは,夫から作曲を禁じられて生きがいを失い、1907年には長女も亡くなって寂しさをアルコールで紛らすようになる。10年に保養先で出会った4歳年下の建築家グロピウスと関係をもち、夫が亡くなったあとは肖像画を依頼した7歳年下のココシュカと関係を持つ。
ココシュカはアルマに求婚するが、アルマは「傑作を描いたら結婚してあげる」と答える。アルマをモデルにしたココシュカの『風の花嫁』はこうして生まれた。しかしアルマは結局グロピウスと結婚するのである。
『風の花嫁』はバーゼルの美術館にあるらしいが、ベルヴェデーレにも『母と子供』などが展示されている。クリムトのような華麗な画風ではないが、タッチに深みがあり,思わず惹きつけられる。
最後にミュージアム・ショップでクリムトのスカーフを買う。金茶とオレンジを基調にしたもので、あまりけばけばしくなくて気に入った。
アパートにも度って着替え。川野さんは昔ウィーンでかったという紫地に花柄の、可愛いパフスリーブのワンピ。私はひらひらつきのアニマル模様のトップスにパンツ、クリムトのスカーフ。

オパーに行き,バルダの2回目の公演を観る。今日は前回バルダが取っておいてくれたのと同じような最前列の席だ。思ったとおりダンサーの足先は見えない。パフォーマンスは1回めよりさらにこなれていて、とりわけノクターン作品55−2の同一性がすばらしかった。作品9−2も、前回はバルダのテンポが早めでダンサーたちが踊りにくそうだったが,このときはしっとりと弾かれた。ソロを弾くときは考えられないような速さで聞き手を置き去りにしてしまうことがあるバルダだが、ダンサーたちのステップには思いやりを見せて,じゅうぶんに待ってあげる。その配慮がえもいわれぬ「間」を生んで美しい。

感激して劇場を出たところでバルダから電話。どうも音量が小さくて何を言っているのかよくわからない。どこかで待ち合わせ・・・と言っている肝心の「どこ」が聞き取れない。聞き返しているうちに電話が切れてしまった。楽屋口などいろいろなところに行ってみたが、姿がない。探しまわっているところに再び電話。「何をしているんだ!」
実はバルダ、劇場前の大型スクリーンの前で待っていると言ったらしい。なんだ、そうか。
衣装を入れたかばんを肩から下げてぽつんと立っているバルダを発見して、今度こそ「すばらしかった!」と首ったまにとびつく。彼もフツーに嬉しそうだった。
近くのカフェにウィンナーシュニッツェルを食べに行く。仔牛を平たくなるまで叩き、衣をつけて揚げた、いわゆるカツレツ。おいしかったのだが、食べている最中に油がはねてクリムトのスカーフを少し汚してしまった。

食後はバルダのホテルまで夜の散歩。建築に詳しいバルダがウィーンの建物について私たちに説明してくれる。詳しいのはいいのだが、いちいち立ち止まって「お前たちはこの美しさに気づかないのか!」とアールヌーヴォーの建築様式について講釈を始めるので、いささか食傷気味。カフェでトイレに行き忘れた私たちは、にわかにもよおしてきてだんだん機嫌が悪くなる。バルダが、アールヌーボー様式の豪華トイレを見せたいというので一挙両得と喜びいさんで行ってみたら閉まっていたり。ようようのことでバルダをホテルに送りとどけたあと,脱兎の勢いでアパートに戻った。
(つづく)
結局、私たちはすぐにバルダと仲直りした。
最初のアクションは、私の携帯にはいっていたバルダからのメール。
「もしかしてお前たちは今日(4日)の午後の後半に私に会いたいと思っているか?」直訳するとこんな感じになる。
次のアクションは川野さんの手紙。最大限に礼をつくしておわびの言葉を書き連ねたらしい。最後に愛のメッセージもふんだんに盛り込む。美術館見物に行くついでにバルダのホテルに持っていき、フロントに預けてくると言って川野さんはアパートを出た。
私は部屋に残って仕事のつづきである。グレン・グールド論の初校が出ていて、一応出発前に戻してはきたのだが、往生際が悪く、まだ推敲したりないところがある。PCを開いてゲラの写しに手を入れる。
そうこうしているうちに、バルダから電話がかかってきた。「アロー?」もう川野さんからの手紙を読んだかなと思い、「ヨーコは?」ときいてみたら、「ヨーコ? 何のことだ」とバルダ。彼女はそちらのホテルに行ったはずだが・・・と言いかけたとたん、バルダが「今、あっちのほうにヨーコが見えた」と叫ぶ。えっ、何それ。とにかく川野さんにかわってもらったところ、笑いながら、ホテルに手紙を届けたあと、道でばったり会っちゃったのだと言う。「私、いつもバルダとばったり会ってしまうのよね」。
このあたりの経緯を川野さんにきいたら、以下のようなことだったらしい。ホテルには運良く! バルダはいなかったのでフロントに詫び状を託し、スワロフスキーで妹さんに頼まれたお土産を買い、外に出て数歩き振り返ったら、そのスワロフスキーのお店の脇でバルダに良く似た人物が電話をかけていたという(電話の相手はもちろん私)。まさかこんなところで会うはずないよね・・・と思ったら手招きするので、駆け寄ったという。
川野さんはてっきりバルダが置き手紙を読んだと思っていたのだが、電話切った瞬間、「お前たちは何で大変な思いをして取った招待席に座らなかったんだ〜〜〜!!」とすごい剣幕で叱られて、返す言葉もなく「ごめんなさい、悪気はなかったの・・・」とくり返し、私のぶんまで怒られて大変だったらしい(スミマセン)。とにかくどこかでお茶することにして、ドイツ語のできない私でもわかるシュテファン寺院の前で15分後に落ち合う約束をした。
ところが、私がアパートを出て寺院のほうに歩いて行ったら、向こうからバルダと川野さんがやってくるではないか。どうも、方向音痴の私がちゃんとシュテファン寺院まで来れるかどうか心配になって、ケルントナー通り( オペラ座か らシュテファン寺院に通ずるウィーンのメインストリート)をゆっくり歩き、シュテファン寺院の手前を右折してアパートに向かったらしい。

川野さんの手紙を読んでいないバルダは、まだ渋い顔をしている。
バルダの提案で、シュテファン寺院の向かいにあるホテルの上階のカフェにはいった。カフェは込んでいて、しかもタバコの煙がもうもうにたちこめている。バルダはむせながら「フランスでは禁煙はあたりまえなのに何なんだここは・・・」と文句を言う。教会の塔がよく見える窓際の席に座り,バルダビールとソーセージ、私たちは焼きサンドのセットとコーヒーをオーダーする。
バルダはまだ昨夜の招待券のことをブツクサ言っている。どうしてお前(私のこと)は自分が電話したときにもうチケットを取ってあると言わなかったのか、せっかく事務局にかけあってよい席をおさえたのに、その席に誰もいないので本当に恥ずかしかった、etc,etc 。いちいちごもっともで、ひたすらあやまるしかない。でも、事務局は招待券をばらまいているから、座る場所に気をつけろと言ったのはそっちなのに・・・とかお腹の中では考えている。
気まずいのでサンドイッチにぱくつく。つけあわせのポテトフライがかりっと揚がっていておいしい。ビールにも合うのでバルダも手をのばし、ケチャップにつけてぱくぱく。少し機嫌がなおったかしら。
ぶつくさ言いつつ、バルダはカメラを出してシュテファン寺院や私と川野さんの写真を撮り、楽しそうでもある。笑いながら怒る・・バルダにはよくあることだ。
私たちはその日オパーで『ドン・ジョヴァンニ』を観ることになっていて、ボックス席のかなりよい場所をおさえていた。川野さんは普段着のまま出てきてしまったので着替えに帰りたいらしいが、私はただでさえ気まずいバルダと二人きりにされるのがいやで、このままいてくださいと懇願する。
『ドン・ジョヴァンニ』の開始時刻が近づいてきたのでカフェを出てオパーに向かう。バルダが、ウィーンの歌劇場は最新式で、正面の壁にスクリーンを設置し、チケットを持っていない人でも上演をみることができるようになっていると話す。たしかに、武道館を思わせる巨大なスクリーンが設置され、前にはベンチが置かれている。バルダとそのスクリーン前で別れ、劇場内にはいる。普段着で来てしまった川野さんは、ボックス席の場所を確認したあと大急ぎでアパートに戻り、ワンピースに着替えてきた。ウィーンのオパーの観客は割合に地味で、初日でもないし、それほど着飾っている人はいない。
留学時代にウィーンでオパーに通いつめた話は前回書いたと思う。ビルギット・ニルソンのイゾルデ、ペーター・シュライヤーのハーゲン、ギネス・ジョーンズのサロメとか、『ドン・ジョヴァンニ』ではフィッシャー・ディースカウの騎士長もあったろうか、とにかく豪華キャストだった。
今回の『ドン・ジョヴァンニ』も舞台はきれいだっだが、背景は写真だけとかずいぶん節約している感じだ。地獄落ちの場面も装置にお金をかけないのでまるで迫力なし。
指揮(Welner-Most)はすごくテンポが早く、序曲など荘重さが出ないし、歌手たちも早口言葉みたいになってブレスが大変そうだった。これが今の流行なのだろうか。
ドン・ジョヴァンニ役(Ildebrando D'Arcangelo)はよい声で、演技も自然、見た目もワイルドでかっこよかった。この役ばかりは、これなら女たちがほだされるのも無理はない、という気持ちにさせるようなワルの魅力がないとシラケてしまう。対して、ボケ役のレオポッロ(Wolfgang Bankl)はすごく肥っていて、久しぶりに歌手らしい歌手を見た思いがす る。この人もよい声だが、ドン・ジョヴァンニ役の声に似ているので、ときにかぶってしまうことがある。
男性陣に比べて女性陣は見劣りがした。ドンナ・エルヴィラ(Malin Hartelius・スウェーデン) はまだいなせな感じでよかったが、ドンナ・アンナ(Camilla Nylund ・フィンランド) はまったく声が出ていなかったし、コロラトゥーラの音程も不正確。これで、今シーズンのウィーンのサロメやアラベラを歌っているというから、ソプラノはよほど人材不足なのかと思ってしまう。
ツェルリーナ(Ilena Tonca・ルーマニア) も声が何だかぱっとしない。「お手をどうぞ」のアリアなど、かわいらしい魅力がなければ効果がないだろう。それでも、ウィーンのオパーの聴く者を包み込むような音響はすばらしく、堪能して帰ってきた。
この日の晩ごはんは前日の残りのターキーをきざみ、ズッキーニとトマトを加えたソースをつくり、ペンネにかけていただく。他にハム、ウオッシュチーズ、ピクルスなどをつまみに、オーストリア産赤ワインで乾杯した。
食事中にバルダから電話がかかってきた。何と、チケットを持っていなかったので、劇場の外の大型スクリーンでずっと観ていたのだという。ドン・ジョヴァンニは好演だが、ドンナ・アンナは声が出ていなかったし、音程も悪かった、地獄落ちの場面はまったく恐怖不足だった・・・と、同じような感想を言う。お前たちを驚かせるために終演後入り口で待っていようと思ったのだが、あまりに寒かったので最後の6重唱の場面の前で帰ってきてしまったという。そのくらいならチケットを買えばよかったのに。ホテルのフロントから川野さんの詫び状を渡されたらしく、ヨーコの手紙に感激している・・・というので川野さんに電話をかわった。作戦成功!
5月5日はロビンスのバレエの2回目の公演がある日だ。昼間はウィーンの美術館巡りである。まず、「黄金のキャベツ」の異名があるセセッションにクリムト「ベートーヴェン・フリース」の壁画を見に行った。

「ウィーン分離派」の第14回展覧会(1902)に出品された壁画で、ベートーヴェンへの賞賛の念を示すために構想されたという。楽園の天使たちの合唱をバックに接吻をかわす男女の姿は、第九交響曲の歓喜の合唱のテキスト「この接吻を全世界に」からとられたとか。展覧会の終了とともに破棄される運命にあったが、美術コレクターが購入し、1903年の分離派第18回展覧会のあと、8つの部分に切り分けて保存された。
音楽が聞こえてくるような壁画なのかなと思って観たのだが、部屋そのものに風情がなく、とてもミケランジェロの『最後の晩餐』とは比較にならない。クリムトの装飾的な図柄や繊細な線、金箔や螺鈿細工を駆使した手法は、ベートーヴェンの無骨で壮大な音楽とはあまり相いれないように思われた。これはちょっと期待はずれ。
逆に期待を上回ったのが、新王宮の美術館である。留学生時代に市立の歴史美術館には通ったが、新王宮のほうは初めてである。いくつかある博物館の中で、エフェソス博物館と古楽器博物館に行った。
エフェソスには思い出がある。新婚旅行でギリシャに行ったとき,エーゲ海クルーズの一環としてエフェソス観光が組み込まれていた。エフェソスは紀元前11世紀に古代ギリシャ人が建設した都市国家で、現存する古代ギリシャ文明最大の遺跡である。とくに、乳房をたくさんつけたアルテミス像は有名だ。
都市遺跡はポンペイを巨大にしたようなもので、柱が立ち並ぶ石畳の道を歩んでいくと、左右に古代の円形劇場とか神殿、広場や浴場跡、美しいタイルや壁画で飾られた住居跡など次々にあらわれて、壮観である。当時はまだ発掘途中で明らかになっていない部分が多かったようだが、今は全貌をあらわしたのだろうか。


オーストリアの考古学者がこのエフェソス発掘にかかわっているようで、当初からの写真がずらりと展示されている。壁には遺跡から発見された彫像やレリーフが飾られ、ちょっとした神殿体験ができるようになっている。これは非常になつかしかった。
古楽器博物館にはヴァイオリンや管楽器と並んで、チェンバロやオルガン、フォルテピアノ、ウィーンの銘器ベーゼンドルファーなどの鍵盤楽器もずらりと並んでいる。さすがにウィーンで、有名作曲家の名前がバンバン出てくる。モーツァルトがロンドンで弾いたと言われる1775年製のペダル・チェンバロ、ベートーヴェンが使っていた1800年製のヴァルター。ローベルト・シューマンとクララが結婚したとき、コンラート・グラーフがお祝いに贈ったという1839年製のコンラート・グラーフなんてのもある。これはのちにブラームスが譲り受けたそうな。
いずれも鍵盤の上にはプラスチックの覆いがかぶせられ、音出し禁止なのだが、下から手を差し入れるとタッチの感触ぐらいはわかる。昔のピアノはシングルアクションだから指のひっかかりがなく、ストンと落ちる。近代ピアノ奏法はひっかかりを計算しながら弾いているから、ストンと落ちるとびっくりする。これでシューマンを弾くにはずいぶんコントロールが必要だったろう。本当は弾いてみたかったけれど。
出口でバルダに電話して、出てこないかと言ってみたが,稽古で抜けられないという。午後はベルヴェデーレに行くと伝えて近くのイタリアン・レストランに昼食をとりに行く。キリッとした白ワインで乾杯。前菜はイタリアのソーセージ・サラミの盛り合わせ。付け合わせにオリーブ、ドライ・トマト、パプリカ。メインはラザーニャ。パリでバルダの行き付けのイタ飯屋で食べたラザーニャが冷たかったのを思い出す。こちらはチーズがとろりと溶けて、熱々でとってもおいしかった。窓の外を観光用の馬車が通っていくのを長めながらゆっくりと食事をした。
食後はベルヴェデーレにクリムトを観に行く。代表作の「接吻」や「ユディットとホロフェルヌス」が展示されている。といっても,私も川野さんもさしてクリムトは好きではない。私はココシュカに見入っていた。クリムトもココシュカも、アルマ・マーラーと縁の深い画家である。風景画家の娘として生まれたアルマ・シントラーは、17歳のとき35歳のクリムトに恋をしたが、愛人だらけで身持ちの悪い画家のことを心配した家族によって仲を割かれたという。
アルマは1902年、22歳のときにウィーン国立歌劇場の音楽監督で作曲家のグスタフ・マーラーに見初められて結婚する。シェーンベルクに作曲を習っていたアルマは,夫から作曲を禁じられて生きがいを失い、1907年には長女も亡くなって寂しさをアルコールで紛らすようになる。10年に保養先で出会った4歳年下の建築家グロピウスと関係をもち、夫が亡くなったあとは肖像画を依頼した7歳年下のココシュカと関係を持つ。
ココシュカはアルマに求婚するが、アルマは「傑作を描いたら結婚してあげる」と答える。アルマをモデルにしたココシュカの『風の花嫁』はこうして生まれた。しかしアルマは結局グロピウスと結婚するのである。
『風の花嫁』はバーゼルの美術館にあるらしいが、ベルヴェデーレにも『母と子供』などが展示されている。クリムトのような華麗な画風ではないが、タッチに深みがあり,思わず惹きつけられる。
最後にミュージアム・ショップでクリムトのスカーフを買う。金茶とオレンジを基調にしたもので、あまりけばけばしくなくて気に入った。
アパートにも度って着替え。川野さんは昔ウィーンでかったという紫地に花柄の、可愛いパフスリーブのワンピ。私はひらひらつきのアニマル模様のトップスにパンツ、クリムトのスカーフ。

オパーに行き,バルダの2回目の公演を観る。今日は前回バルダが取っておいてくれたのと同じような最前列の席だ。思ったとおりダンサーの足先は見えない。パフォーマンスは1回めよりさらにこなれていて、とりわけノクターン作品55−2の同一性がすばらしかった。作品9−2も、前回はバルダのテンポが早めでダンサーたちが踊りにくそうだったが,このときはしっとりと弾かれた。ソロを弾くときは考えられないような速さで聞き手を置き去りにしてしまうことがあるバルダだが、ダンサーたちのステップには思いやりを見せて,じゅうぶんに待ってあげる。その配慮がえもいわれぬ「間」を生んで美しい。

感激して劇場を出たところでバルダから電話。どうも音量が小さくて何を言っているのかよくわからない。どこかで待ち合わせ・・・と言っている肝心の「どこ」が聞き取れない。聞き返しているうちに電話が切れてしまった。楽屋口などいろいろなところに行ってみたが、姿がない。探しまわっているところに再び電話。「何をしているんだ!」
実はバルダ、劇場前の大型スクリーンの前で待っていると言ったらしい。なんだ、そうか。
衣装を入れたかばんを肩から下げてぽつんと立っているバルダを発見して、今度こそ「すばらしかった!」と首ったまにとびつく。彼もフツーに嬉しそうだった。
近くのカフェにウィンナーシュニッツェルを食べに行く。仔牛を平たくなるまで叩き、衣をつけて揚げた、いわゆるカツレツ。おいしかったのだが、食べている最中に油がはねてクリムトのスカーフを少し汚してしまった。

食後はバルダのホテルまで夜の散歩。建築に詳しいバルダがウィーンの建物について私たちに説明してくれる。詳しいのはいいのだが、いちいち立ち止まって「お前たちはこの美しさに気づかないのか!」とアールヌーヴォーの建築様式について講釈を始めるので、いささか食傷気味。カフェでトイレに行き忘れた私たちは、にわかにもよおしてきてだんだん機嫌が悪くなる。バルダが、アールヌーボー様式の豪華トイレを見せたいというので一挙両得と喜びいさんで行ってみたら閉まっていたり。ようようのことでバルダをホテルに送りとどけたあと,脱兎の勢いでアパートに戻った。
(つづく)
「安川加壽子記念会 30年の時を経て蘇る秘蔵映像」を終えて
アンリ・バルダのウィーン日記が途中なのだが、次から次にことが押し寄せる。
6月24日には浜離宮朝日ホールの小ホールで安川加壽子記念会の第10回コンサートとして、安川先生ご自身の演奏映像を上映する会を催し、私がナビゲーターをつとめた。
安川記念会は、1996年7月12日に先生が亡くなったとき、ご葬儀の折りに楽奏するために発足した門下生の集まりが母体になっている。一周忌を期に結成され、97年に東京の紀尾井ホールで開かれたコンサートでは、先生のレパートリーからドビュッシーの前奏曲をメドレーで弾き、私も2、3曲弾かせていただいた。普通は一回かぎりの公演で終わりになるものだが、この会では、長く演奏活動をつづけた先生に倣って、先生にゆかりの演奏家の方々のご協力も得てそのつどコンサートを催してきた。
その第7回だったか、東京文化会館小ホールのロビーで、先生の演奏映像のごく一部を紹介したところ、大変好評をいただいた。当時はご夫君の定男先生もご存命で、「まるで加壽子が帰ってきたようだ」と喜んでくださった。そのときは、ロビーに椅子を並べただけだったので、残念ながら後ろのほうの席の方にはまったく見えなかったようだ。
今回のホールには大きなスクリーンもあり、後ろのほうの席はスロープになっているので見やすい。先生のあでやかな舞台姿を記憶にとどめていらっしゃる方には、それを新たにするこの上ない機会だろうと思う。今では、先生のステージに接したことのない方もたくさんいらっしゃるので、そんな方々にも是非見ていただきたいと企画した。
安川先生のファンの多くは、もう定年退職していらっしゃる方にちがいない。夜は出にくいかもしれないから、14時から昼の部を開催しよう。もちろん、現役の方々にも見ていただきたいから夜の部は19時に開催する。そんな提案をしたのは私だった。昼夜公演はトークコンサートで慣れている。それでも、自分が演奏するなら大変だが、今回はナビゲーターに徹するので大丈夫。
最初に放映したのは、1981年9月2日、先生の演奏生活40周年記念の年に日本テレビ『私の音楽会』という番組のためにおこなわれた公開録画からラヴェル『水の戯れ』である。
この作品は、先生の十八番のひとつだった。残念ながら典雅なピアノの響きはダビングで損なわれてしまったが、映像はそのままだ。安川先生のピアニズムで一番すごいと思うのは、左右の手の独立である。左手と右手がまるで別の生き物のように動き、左手は美しい放物線を描いて右手をとびこえ、すばやいアルペジオやたっぷりしたメロディを奏でる。体幹がしっかりして、肩から肘が完全に脱力しているからこそできることなのである。『水の戯れ』の右手には親指で二度を弾くむずかしい場面もあり、普通は手がひきつってしまうのだが、先生の長い親指は2つのキーを苦もなくとらえ、美しいソノリティをつくり出す。先生の手は大きく、左手で十度をつかんでいる場面もほんの一瞬出てくる。
そして、豊かな響をともないながら決して透明感を失わない絶妙のペダリング。

次は、同じ番組から、音楽評論家の丹羽正明さんによっておこなわれたインタビューの模様である。主な話題は、前年に創設され、先生が審査委員長をつとめた日本国際音楽コンクール。それまでは日本から海外にコンクールを受けに行くばかりだったが、今度は自国で開催するので、やっと対等な場に立てた思いがするというお話だった。
お父さまが国際連盟で活躍され、自らも海外で育った先生は、国際社会の中に日本を置いて見るという意識が大変強かった。世界のピアノ界の動向と日本との比較、そして未来への展望まで、先生の視野の広さ、先見の明には驚かされる。1980年代はじめといえば、旧ソ連を初めとするいわゆる共産圏諸国が全体主義的な教育をおこない、国際コンクールで成果をあげていた時期なので、そのことも話題に出てきた。
民族によって勉強の仕方も違うというお話もおもしろかった。フランス、イタリアなどラテン系の国々は、まず土台づくりをしてから作品の演奏に応用するというやり方だが、アングロ・サクソン系はいきなり作品を勉強して、むずかしいところはその中で練習する、等々。私が育ったころの日本のピアノ界はまだまだ「より強く、より速く」という時代だったが、当時から安川先生は、テクニックは音楽表現や解釈に則したものでなければならない、そのためにもテクニックの土台づくりが重要だと力説していらっしゃった。
昨年のショパンコンクールなどを見ると、練習曲など、本来は腕の見せどころの場面でもあまりテンポを上げず、テキスト解釈で勝負しようとした人が多く、先生の予言は見事に当たっていると思う。
つづいて、同じ『私の音楽会』からモーツァルト『ピアノ協奏曲第26番 戴冠式』の第2楽章「ラルゲット」を見ていただいた。
『戴冠式』は1788年に書かれ、翌89年4月14日、ドレスデンの宮廷音楽会で、モーツァルト自身が初演したと言われている。翌90年、レオポルト2世の戴冠式の折りに演奏されたことからこの呼び名がある。
「ラルゲット」はイ長調の典雅な気分にひたされた美しい曲。カメラは先生の掌をいくぶん下から映し出すので、タッチが非常によくわかる。同じ音が4つつづく主題の前半をさまざまな方向のタッチで弾きわけ、つづくスラーとスタッカートでは手首の高さを変えて表情をつける。また、歌い込んでいくときの指のレガート、手首の位置なども、古典のメロディを歌うときのお手本のような奏法で、解釈とピアニズムが理想的にむすびついている。
中間部、右手一本でメロディを歌うところなど、音が減衰してしまうピアノには酷な箇所なのだが、先生が腕をしなやかに使って打鍵すると、たっぷりした余韻が長く糸をひき、少しも不足を感じさせない。あらためて先生のフレージングの見事さに耳を奪われた。
前半の最後は、同じ年の5月28日にNHKホールで開かれたN響特別演奏会から野田暉行『ピアノ協奏曲』の模様である。プログラムは他に、モーツァルト『ピアノ協奏曲K488』とラヴェル『左手のための協奏曲』。ラヴェルの『左手』には、低音部から高音部にかけて長いグリッサンドが出てくるが、右手をさっと出して邪魔になるたもとをおさえる動作がかっこよくて、今も目に焼きついている。
モーツァルトの第3楽章でもハプニングがあった。ロンド主題が再現されるところで先生は、とっさにあとのほうの経過句を弾いてしまったのである。一瞬はっと思ったが、よどみない流れの中で巧みに処理され、事故は何も起きなかった。それでも、演奏生活40周年を祝う演奏会で、先生のステージにかける意気込みとともに緊張も感じられ、先生にもこんなことがあるんだなーと、ちょっとほっとした気分になったことをおぼえている。
野田暉行さんの協奏曲は、1977年、NHKの委嘱により作曲・初演、同年尾高賞、芸術祭優秀賞を受賞した作品である。
17歳までパリで学んだ安川先生は、アンリ・デュティユをはじめ同時代の作曲家たちがフランスの音楽界を担っていくさまをリアルタイムで見ていたので、作曲界が元気になると楽壇も元気になるからと、日本の現代ピアノ曲のシリーズを企画するなど、作曲界の活性化に力を尽くされた。
野田さんは、CD「安川加壽子の遺産」のライナーノーツで演奏会の模様を次のように書いている。
「安川先生が、ある日突然、私のピアノ協奏曲を弾くかもしれないと言われた時は大へんな驚きだった。いつも芸大の教授会では、斜め後ろの席でお近かった。とはいえ、先生は、若輩の私などなかなかお声をかけ難い存在であり、静かな佇まいの先生をただただ仰ぎ見るばかりだったのである。洋楽の神髄を体現され、日本の音楽史を自らの手で育ててこられた先生が、まだ生まれて間もない新曲を演奏して下さるということに、私は真に勇気付けられたのであった。
(中略)この夜の演奏は、まさに、自由な境地に到達された先生の奥義であった。まさかのこの演奏が、私の聴き得る、先生の最後の協奏曲の夕べになろうとは考えもせず、私は、ひたすら堪能していた。今もなおその光景は鮮明なのである。それから暫くして、先生はリウマチを患われ、それは不治の病となり、とうとう先生の手から音を奪い去ってしまった。最後の曲目の一つに私の曲を選んで下さったその思いを、その重さを、私は強く胸に秘めている。
演奏会当日、オーケストラとのゲネプロが終って先生に一つだけお願いをした。普通ならこの段階での注文は、聞くだけ聞いて、ということになるのであるが、先生はそうではなかった。「あ、そう」と軽く頷かれたその箇所は、決して変更容易なものではなかったが、本番で見事に変っており、私を驚嘆させた。やはり先生は、幼くしてプロとしてのメティエを獲得された、プロ中のプロであることを目の当たりにしたのであった」
この演奏会で先生は、花柄のドレスの上に、打ち掛けのような同柄のふわっとしたガウンをまとってあらわれた。今から思えばリウマチで肩が冷えるのを防止するためだろう。 1980年代はじめといったら、現代音楽は一般的に「ガラガラドシャン」とうるさいものだと認識されていて、演奏するほうも平気でつぶれた音や汚い響きを出していたように思うが、先生は現代曲を弾くときでも常にためをつくり、極力ダイレクトなタッチを避けている。文字どおり「翼のはえた指」、シャープな腕の運びはさすがだと思った。

この映像でおもしろかったのは、譜めくりである。譜めくり役は前の新演奏家協会代表の魚住源二さん。ホールではよくあることだが、天井で風が渦まいているので、譜面の片方が返ってきてしまってハラハラする。魚住さんが立ち上がるタイミングを失して先生がご自分でめくっているところもある。そうでなくても丁々発止の現代曲の協奏曲で、普通はそんなことがあったら気が動転するものだが、先生の沈着冷静ぶりに頭が下がる。
昼の部では、ここで楽しいできごとが起きた。協奏曲の映像途中で事務所の人が、野田先生がいらしてます・・・と耳打ちしてくださったのだ。演奏終了後、安川先生が客席に向かって手まねきをし、作曲者を呼ぶシーンが映っていたから、とっさにこれを利用しようと思った。
協奏曲が終わり、ステージが明るくなる。すかさず、客席のどこかにいるはずの野田さんに向かって「安川先生が呼んでいらっしゃいます」と呼びかけた。野田さんは立って挨拶し、客席からは拍手が沸き起こった。
終演後にきいたことだが、実はこのとき、音楽評論家の丹羽正明さんもいらしていたのだ。ご紹介しなくてすみませんとあやまったら、丹羽さんは、番組のことを熱っぽく語ってくださった。安川先生とのインタビューはよどみなく流れているように見えるが、実は4日前に打ち合わせし、細部まで練り上げたものだという。たしかに、先生はパリ育ちでフランス語が母国語、寝言もフランス語でおっしゃるというから、周到な準備がなければスムーズには運ばなかったかもしれない。
後半のプログラムは、前半より3年ほど前の1978年7月5日にNHKホールで開かれたショパン・リサイタルからの録画である。野田暉行さんが書いていらっしゃるように、先生はリウマチからくる手指の故障で83年を期に演奏生命を奪われたが、その最初の発作が起きるわずか1ヶ月前の演奏だった。リウマチが悪化してからは、語り種になっている先生のあでやかな舞台姿も損なわれてしまったが、この映像では、すべてが準備されているのにまったく自然なステージマナーを堪能することができる。
演奏会のプログラムで井上二葉先生が「袖から出てきたときからすでに音楽がはじまっている」と書かれているが、まさにそのとおりで、まずピアノの背もたれに右手をのばし、ついでピアノの背に左手を軽くそえる。そうえいば、このころはまだ背もたれのある椅子を使っていた(今ではスツールタイプが一般的だ)のだなと、そんなところにもなつかしい思いがした。
最初の曲は『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』。ポロネーズは1831年作。序奏は34年に出版される際に作曲された。管弦楽伴奏つきとして書かれたが、こんにちではソロで演奏されることが多い。アンダンテ・スピアナートでは、左手の親指を基点とした自在なアルペジオと、右手の美しいカンタービレが印象的だ。モーツァルトのときは手首を高くとって腕をつり下げるようにして弾いていらしたが、ショパンでは手首を低くとり、指先で練るようにタッチしている。安川先生といえば、優雅で繊細なタッチばかり愛でられたものだが、実はロマンティックな音楽にも対応するテクニックを持っていらしたのだ。
ポロネーズは右手の技巧が大変むずかしいが、先生独特の手前に引き寄せるようなタッチで苦もなく処理されている。腕でぽーんとはずませるスタッカート、身体中が躍動するようなダイナミックなリズムは圧巻。
何度も見ている映像なのだが、改めて大きな画面で見ると、しきりに胸が詰まって涙が出そうになって困った。聴いていらした方も同じ思いだったらしい。演奏終了後に客席はどよめき、自然発生的に拍手が湧き起こった。
先生のリズム感はヨーロッパ仕込みなのだ。パリで小学校に通っていらしたころ、体操の授業にダンスが組み込まれていて、すべてのステップを習ったという。先生のお宅に伺ったとき、小さな銀色のケースに細い爪楊枝のようなものがはいっているのを見つけて、これ何ですか? と伺ったら、舞踏会でダンスを申し込んできた男性に渡すものだと話していらした。残念ながら先生は、舞踏会デビューの前に戦争で帰国しなければならなくなったのだが、十七歳の先生が舞踏会に出ていたらどんなに人気だったろうと、思うだけでわくわくする。
涙をこらえてこんな話をしたあと、「子守歌」「舟歌」「スケルツォ第4番」をつづけて見ていただく。
「子守歌」は1843〜44年、ショパンが可愛がっていた歌姫ポーリーヌ・ヴィアルドーの娘のために書かれた作品。よどみない左手の伴奏に乗って、旋律に繊細な変化がつけられていく。カメラは下のアングルから映し出すので、先生の大きな掌で包み込むようにして装飾のヴァリアントが紡ぎ上げられていくさまに目をうばわれてしまう。自らも3人のお子さまをお持ちの先生の慈愛に満ちた表現にも心打たれる。
「舟歌」は、1846年に書かれたショパン晩年の傑作である。ヴェネツィアのゴンドラのリズムに乗って展開する音楽は刻々と表情を変える。いつも親指を基点とした重音のテクニック、常に呼吸しているようなしなやかな手首に目を奪われる。先生の「舟歌」のテンポでは、ひとつのエピソードがある。芸大のピアノ科の試験で、ある学生が「舟歌」の演奏時間を7分と書いて提出したところ、ある先生が「舟歌」は7分では弾けない、もっとかかるだろうと発言した。そうしたら安川先生はこともなげに「あら、私は6分で弾くわよ」とおっしゃったとか。
そんなわけでテンポは速いが、うつろいゆく表情の変化がさっとひと刷毛で描かれるあたりは見事。クライマックスでは、音楽に没入しきった先生ご自身の表情も読みとれる。
「スケルツォ第4番」は1842年作。悲劇的な作風のスケルツォの中で唯一長調で書かれた作品。優雅で洒脱な雰囲気が先生のピアニズムにぴったりだ。とりわけ両手でのぼっていく重音のスタッカートは誰もが苦労するものだが、先生は見事な指さばきで鮮やかに弾かれる。表面的な華麗さに耳を奪われがちだが、実は堅固な和声的構築にもとづき、太い線でぐいぐいと押していく迫力にも圧倒される。
ここでプログラムに書いた演奏がすべて終わり、客席からは再び拍手。
「ありがとうございます。先生は、今となってみればご丈夫だった最後の演奏会で、とても興に乗っていらして、珍しく3回もアンコールなさっています。先生のアンコールといえば、まずドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』『ミンストレル』、ショパン『練習曲作品25−1』や『同25−2』『夜想曲作品9−2』などでした。この日は練習曲2曲に加えて『ワルツ作品64−2』も弾かれています。残念ながら映像はないですが、そのアンコールの音をお聞きいただいて、終わりにしたいと思います。この音は、当時高校生だったあるファンの方が録音してずっと大切に持っていらしたのをコピーしていただいたものです」
音源を保存していらしたのは、当時地方の高校生だった方だ。一年の冬、テレビで安川先生の演奏会の録画を見て、「舟歌」のクライマックス部分でこれまで体験したことのない感動に襲われ、気がついたらテレビの前で涙を流していたという。この方はその体験を作文に書き、『音楽鑑賞教育』という雑誌の作文に応募したところ、入賞した。
そんな思い出とともに送られてきたのは、NHKホールでの演奏会の録音だった。私たちが入手した映像にはアンコール曲はショパン『練習曲作品25−1』だけだった(しかも映像は途中で途切れていた)が、録音ではさらに『ワルツ作品64−2』と『練習曲作品25−2』も収録されていた。
当初は『ワルツ』だけを聴いていただこうと思っていたのだが、リハーサルのときに聴いてみたら、『練習曲作品25−2』はさらに感動的な演奏なので、最後にこの2曲を聴いていただこうと思ったわけだ。
どちらも、プログラムを演奏し終えたあとの高揚した気分がよく味わえるが、なかでも『練習曲作品25−2』はすばらしい。先生の右手からくりだされる繊細な6連音符を左手の三連音符が支え、からみあい、見事なアラベスクを紡ぎあげる(夜の部のトークではここを「アルペジオ」と間違えてしまった。痛恨のミス!)。
昼の部も夜の部も、終了後、ロビーに出て行ったら多くの方に囲まれた。
昼の部には野田暉行さんを安川先生の霊が呼ぶ(!)という感動的なハプニングがあり、こちらも高揚した気分がしばらくつづいた。夜の部にはその手は使えなかったし、そのぶん、立ち上がりが鈍かったように思うが、後半の『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』を見ているうちにどんどん音楽が身体に入り込んできて、後半のショパン・プログラムは昼の部より感情移入してトークすることができたように思う。
1978年という年は安川先生がエリザベート国際コンクールの審査に行かれて、日本人が誰も入賞できなかったのである種の挫折感をいだいたまま帰国、空港で肩に異変を感じたときである。先生はそのとき、「日本人が欧米のピアニストに追いつくまでにはあと25年はかかるだろう」と思われたという。それからとっくに25年はすぎているが、そして、その間日本のピアノ界は大進歩をとげ、国際舞台に進出しているはずなのだが、昨年のショパンコンクールでは再び振り出しに戻ってしまった・・・ような気がした。
いったい何なのだろう? 本物の脱力、本物のリズム感、本物の色彩感、本物の解釈とそれにむすびついたテクニック、アスリートと比べてもほれぼれするようななめらかで無駄のない動き。さりげない、でも美しいステージマナー、ドレス、仕種、たたずまいのすべて。何よりも、個より公のことをまず第一に考える姿勢、広い視野と暖かい心。
私は1999年に刊行した『翼のはえた指』で、「日本のピアノ界が頭打ちになっているのは安川加壽子が足りないからだ」と書いたが、その気持ちは今も変わっていない。
私は、評伝を書いたときもそうだったが、門下生だから安川加壽子先生のことを紹介したいと思ったのではない。真に偉大な音楽家で、生前にその希有なご存在がすべて理解されたとは思えなかったので、その隙間を−少しでも−埋めたかったのだ。
打ち上げを終えて帰宅したら、いくつか感想メールがはいっていた。
「初めて演奏とお姿を拝見したのですが、流麗でかつ衣装なども本当に美しく、当時の方々が憧れの眼差しで熱狂したのもうなずけました。あのような流れるようなショパン、あまり最近では聴かないように思います」
これは若い音楽学者の卵さん。
「初めて安川加壽子先生の演奏されている姿を拝見しました。衝撃でした。インタビューの内容もすばらしかったです。
お話では幾度も、安川先生はこうであったといろいろな形で伺って来たのですが、実際目にすることができて本当に良かったです。映像を観たというよりも、本当に生の演奏会を観たような、生々しさ、鮮烈な印象を受けました」
こちらは元音楽雑誌の編集さん。
夜の部には子供たちもたくさんきていた。願わくば、彼ら彼女らの中に「安川加壽子」が根付き、いつか美しい実をむすばんことを。

7/31追記:関連記事
6月24日には浜離宮朝日ホールの小ホールで安川加壽子記念会の第10回コンサートとして、安川先生ご自身の演奏映像を上映する会を催し、私がナビゲーターをつとめた。
安川記念会は、1996年7月12日に先生が亡くなったとき、ご葬儀の折りに楽奏するために発足した門下生の集まりが母体になっている。一周忌を期に結成され、97年に東京の紀尾井ホールで開かれたコンサートでは、先生のレパートリーからドビュッシーの前奏曲をメドレーで弾き、私も2、3曲弾かせていただいた。普通は一回かぎりの公演で終わりになるものだが、この会では、長く演奏活動をつづけた先生に倣って、先生にゆかりの演奏家の方々のご協力も得てそのつどコンサートを催してきた。
その第7回だったか、東京文化会館小ホールのロビーで、先生の演奏映像のごく一部を紹介したところ、大変好評をいただいた。当時はご夫君の定男先生もご存命で、「まるで加壽子が帰ってきたようだ」と喜んでくださった。そのときは、ロビーに椅子を並べただけだったので、残念ながら後ろのほうの席の方にはまったく見えなかったようだ。
今回のホールには大きなスクリーンもあり、後ろのほうの席はスロープになっているので見やすい。先生のあでやかな舞台姿を記憶にとどめていらっしゃる方には、それを新たにするこの上ない機会だろうと思う。今では、先生のステージに接したことのない方もたくさんいらっしゃるので、そんな方々にも是非見ていただきたいと企画した。
安川先生のファンの多くは、もう定年退職していらっしゃる方にちがいない。夜は出にくいかもしれないから、14時から昼の部を開催しよう。もちろん、現役の方々にも見ていただきたいから夜の部は19時に開催する。そんな提案をしたのは私だった。昼夜公演はトークコンサートで慣れている。それでも、自分が演奏するなら大変だが、今回はナビゲーターに徹するので大丈夫。
最初に放映したのは、1981年9月2日、先生の演奏生活40周年記念の年に日本テレビ『私の音楽会』という番組のためにおこなわれた公開録画からラヴェル『水の戯れ』である。
この作品は、先生の十八番のひとつだった。残念ながら典雅なピアノの響きはダビングで損なわれてしまったが、映像はそのままだ。安川先生のピアニズムで一番すごいと思うのは、左右の手の独立である。左手と右手がまるで別の生き物のように動き、左手は美しい放物線を描いて右手をとびこえ、すばやいアルペジオやたっぷりしたメロディを奏でる。体幹がしっかりして、肩から肘が完全に脱力しているからこそできることなのである。『水の戯れ』の右手には親指で二度を弾くむずかしい場面もあり、普通は手がひきつってしまうのだが、先生の長い親指は2つのキーを苦もなくとらえ、美しいソノリティをつくり出す。先生の手は大きく、左手で十度をつかんでいる場面もほんの一瞬出てくる。
そして、豊かな響をともないながら決して透明感を失わない絶妙のペダリング。

次は、同じ番組から、音楽評論家の丹羽正明さんによっておこなわれたインタビューの模様である。主な話題は、前年に創設され、先生が審査委員長をつとめた日本国際音楽コンクール。それまでは日本から海外にコンクールを受けに行くばかりだったが、今度は自国で開催するので、やっと対等な場に立てた思いがするというお話だった。
お父さまが国際連盟で活躍され、自らも海外で育った先生は、国際社会の中に日本を置いて見るという意識が大変強かった。世界のピアノ界の動向と日本との比較、そして未来への展望まで、先生の視野の広さ、先見の明には驚かされる。1980年代はじめといえば、旧ソ連を初めとするいわゆる共産圏諸国が全体主義的な教育をおこない、国際コンクールで成果をあげていた時期なので、そのことも話題に出てきた。
民族によって勉強の仕方も違うというお話もおもしろかった。フランス、イタリアなどラテン系の国々は、まず土台づくりをしてから作品の演奏に応用するというやり方だが、アングロ・サクソン系はいきなり作品を勉強して、むずかしいところはその中で練習する、等々。私が育ったころの日本のピアノ界はまだまだ「より強く、より速く」という時代だったが、当時から安川先生は、テクニックは音楽表現や解釈に則したものでなければならない、そのためにもテクニックの土台づくりが重要だと力説していらっしゃった。
昨年のショパンコンクールなどを見ると、練習曲など、本来は腕の見せどころの場面でもあまりテンポを上げず、テキスト解釈で勝負しようとした人が多く、先生の予言は見事に当たっていると思う。
つづいて、同じ『私の音楽会』からモーツァルト『ピアノ協奏曲第26番 戴冠式』の第2楽章「ラルゲット」を見ていただいた。
『戴冠式』は1788年に書かれ、翌89年4月14日、ドレスデンの宮廷音楽会で、モーツァルト自身が初演したと言われている。翌90年、レオポルト2世の戴冠式の折りに演奏されたことからこの呼び名がある。
「ラルゲット」はイ長調の典雅な気分にひたされた美しい曲。カメラは先生の掌をいくぶん下から映し出すので、タッチが非常によくわかる。同じ音が4つつづく主題の前半をさまざまな方向のタッチで弾きわけ、つづくスラーとスタッカートでは手首の高さを変えて表情をつける。また、歌い込んでいくときの指のレガート、手首の位置なども、古典のメロディを歌うときのお手本のような奏法で、解釈とピアニズムが理想的にむすびついている。
中間部、右手一本でメロディを歌うところなど、音が減衰してしまうピアノには酷な箇所なのだが、先生が腕をしなやかに使って打鍵すると、たっぷりした余韻が長く糸をひき、少しも不足を感じさせない。あらためて先生のフレージングの見事さに耳を奪われた。
前半の最後は、同じ年の5月28日にNHKホールで開かれたN響特別演奏会から野田暉行『ピアノ協奏曲』の模様である。プログラムは他に、モーツァルト『ピアノ協奏曲K488』とラヴェル『左手のための協奏曲』。ラヴェルの『左手』には、低音部から高音部にかけて長いグリッサンドが出てくるが、右手をさっと出して邪魔になるたもとをおさえる動作がかっこよくて、今も目に焼きついている。
モーツァルトの第3楽章でもハプニングがあった。ロンド主題が再現されるところで先生は、とっさにあとのほうの経過句を弾いてしまったのである。一瞬はっと思ったが、よどみない流れの中で巧みに処理され、事故は何も起きなかった。それでも、演奏生活40周年を祝う演奏会で、先生のステージにかける意気込みとともに緊張も感じられ、先生にもこんなことがあるんだなーと、ちょっとほっとした気分になったことをおぼえている。
野田暉行さんの協奏曲は、1977年、NHKの委嘱により作曲・初演、同年尾高賞、芸術祭優秀賞を受賞した作品である。
17歳までパリで学んだ安川先生は、アンリ・デュティユをはじめ同時代の作曲家たちがフランスの音楽界を担っていくさまをリアルタイムで見ていたので、作曲界が元気になると楽壇も元気になるからと、日本の現代ピアノ曲のシリーズを企画するなど、作曲界の活性化に力を尽くされた。
野田さんは、CD「安川加壽子の遺産」のライナーノーツで演奏会の模様を次のように書いている。
「安川先生が、ある日突然、私のピアノ協奏曲を弾くかもしれないと言われた時は大へんな驚きだった。いつも芸大の教授会では、斜め後ろの席でお近かった。とはいえ、先生は、若輩の私などなかなかお声をかけ難い存在であり、静かな佇まいの先生をただただ仰ぎ見るばかりだったのである。洋楽の神髄を体現され、日本の音楽史を自らの手で育ててこられた先生が、まだ生まれて間もない新曲を演奏して下さるということに、私は真に勇気付けられたのであった。
(中略)この夜の演奏は、まさに、自由な境地に到達された先生の奥義であった。まさかのこの演奏が、私の聴き得る、先生の最後の協奏曲の夕べになろうとは考えもせず、私は、ひたすら堪能していた。今もなおその光景は鮮明なのである。それから暫くして、先生はリウマチを患われ、それは不治の病となり、とうとう先生の手から音を奪い去ってしまった。最後の曲目の一つに私の曲を選んで下さったその思いを、その重さを、私は強く胸に秘めている。
演奏会当日、オーケストラとのゲネプロが終って先生に一つだけお願いをした。普通ならこの段階での注文は、聞くだけ聞いて、ということになるのであるが、先生はそうではなかった。「あ、そう」と軽く頷かれたその箇所は、決して変更容易なものではなかったが、本番で見事に変っており、私を驚嘆させた。やはり先生は、幼くしてプロとしてのメティエを獲得された、プロ中のプロであることを目の当たりにしたのであった」
この演奏会で先生は、花柄のドレスの上に、打ち掛けのような同柄のふわっとしたガウンをまとってあらわれた。今から思えばリウマチで肩が冷えるのを防止するためだろう。 1980年代はじめといったら、現代音楽は一般的に「ガラガラドシャン」とうるさいものだと認識されていて、演奏するほうも平気でつぶれた音や汚い響きを出していたように思うが、先生は現代曲を弾くときでも常にためをつくり、極力ダイレクトなタッチを避けている。文字どおり「翼のはえた指」、シャープな腕の運びはさすがだと思った。

この映像でおもしろかったのは、譜めくりである。譜めくり役は前の新演奏家協会代表の魚住源二さん。ホールではよくあることだが、天井で風が渦まいているので、譜面の片方が返ってきてしまってハラハラする。魚住さんが立ち上がるタイミングを失して先生がご自分でめくっているところもある。そうでなくても丁々発止の現代曲の協奏曲で、普通はそんなことがあったら気が動転するものだが、先生の沈着冷静ぶりに頭が下がる。
昼の部では、ここで楽しいできごとが起きた。協奏曲の映像途中で事務所の人が、野田先生がいらしてます・・・と耳打ちしてくださったのだ。演奏終了後、安川先生が客席に向かって手まねきをし、作曲者を呼ぶシーンが映っていたから、とっさにこれを利用しようと思った。
協奏曲が終わり、ステージが明るくなる。すかさず、客席のどこかにいるはずの野田さんに向かって「安川先生が呼んでいらっしゃいます」と呼びかけた。野田さんは立って挨拶し、客席からは拍手が沸き起こった。
終演後にきいたことだが、実はこのとき、音楽評論家の丹羽正明さんもいらしていたのだ。ご紹介しなくてすみませんとあやまったら、丹羽さんは、番組のことを熱っぽく語ってくださった。安川先生とのインタビューはよどみなく流れているように見えるが、実は4日前に打ち合わせし、細部まで練り上げたものだという。たしかに、先生はパリ育ちでフランス語が母国語、寝言もフランス語でおっしゃるというから、周到な準備がなければスムーズには運ばなかったかもしれない。
後半のプログラムは、前半より3年ほど前の1978年7月5日にNHKホールで開かれたショパン・リサイタルからの録画である。野田暉行さんが書いていらっしゃるように、先生はリウマチからくる手指の故障で83年を期に演奏生命を奪われたが、その最初の発作が起きるわずか1ヶ月前の演奏だった。リウマチが悪化してからは、語り種になっている先生のあでやかな舞台姿も損なわれてしまったが、この映像では、すべてが準備されているのにまったく自然なステージマナーを堪能することができる。
演奏会のプログラムで井上二葉先生が「袖から出てきたときからすでに音楽がはじまっている」と書かれているが、まさにそのとおりで、まずピアノの背もたれに右手をのばし、ついでピアノの背に左手を軽くそえる。そうえいば、このころはまだ背もたれのある椅子を使っていた(今ではスツールタイプが一般的だ)のだなと、そんなところにもなつかしい思いがした。
最初の曲は『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』。ポロネーズは1831年作。序奏は34年に出版される際に作曲された。管弦楽伴奏つきとして書かれたが、こんにちではソロで演奏されることが多い。アンダンテ・スピアナートでは、左手の親指を基点とした自在なアルペジオと、右手の美しいカンタービレが印象的だ。モーツァルトのときは手首を高くとって腕をつり下げるようにして弾いていらしたが、ショパンでは手首を低くとり、指先で練るようにタッチしている。安川先生といえば、優雅で繊細なタッチばかり愛でられたものだが、実はロマンティックな音楽にも対応するテクニックを持っていらしたのだ。
ポロネーズは右手の技巧が大変むずかしいが、先生独特の手前に引き寄せるようなタッチで苦もなく処理されている。腕でぽーんとはずませるスタッカート、身体中が躍動するようなダイナミックなリズムは圧巻。
何度も見ている映像なのだが、改めて大きな画面で見ると、しきりに胸が詰まって涙が出そうになって困った。聴いていらした方も同じ思いだったらしい。演奏終了後に客席はどよめき、自然発生的に拍手が湧き起こった。
先生のリズム感はヨーロッパ仕込みなのだ。パリで小学校に通っていらしたころ、体操の授業にダンスが組み込まれていて、すべてのステップを習ったという。先生のお宅に伺ったとき、小さな銀色のケースに細い爪楊枝のようなものがはいっているのを見つけて、これ何ですか? と伺ったら、舞踏会でダンスを申し込んできた男性に渡すものだと話していらした。残念ながら先生は、舞踏会デビューの前に戦争で帰国しなければならなくなったのだが、十七歳の先生が舞踏会に出ていたらどんなに人気だったろうと、思うだけでわくわくする。
涙をこらえてこんな話をしたあと、「子守歌」「舟歌」「スケルツォ第4番」をつづけて見ていただく。
「子守歌」は1843〜44年、ショパンが可愛がっていた歌姫ポーリーヌ・ヴィアルドーの娘のために書かれた作品。よどみない左手の伴奏に乗って、旋律に繊細な変化がつけられていく。カメラは下のアングルから映し出すので、先生の大きな掌で包み込むようにして装飾のヴァリアントが紡ぎ上げられていくさまに目をうばわれてしまう。自らも3人のお子さまをお持ちの先生の慈愛に満ちた表現にも心打たれる。
「舟歌」は、1846年に書かれたショパン晩年の傑作である。ヴェネツィアのゴンドラのリズムに乗って展開する音楽は刻々と表情を変える。いつも親指を基点とした重音のテクニック、常に呼吸しているようなしなやかな手首に目を奪われる。先生の「舟歌」のテンポでは、ひとつのエピソードがある。芸大のピアノ科の試験で、ある学生が「舟歌」の演奏時間を7分と書いて提出したところ、ある先生が「舟歌」は7分では弾けない、もっとかかるだろうと発言した。そうしたら安川先生はこともなげに「あら、私は6分で弾くわよ」とおっしゃったとか。
そんなわけでテンポは速いが、うつろいゆく表情の変化がさっとひと刷毛で描かれるあたりは見事。クライマックスでは、音楽に没入しきった先生ご自身の表情も読みとれる。
「スケルツォ第4番」は1842年作。悲劇的な作風のスケルツォの中で唯一長調で書かれた作品。優雅で洒脱な雰囲気が先生のピアニズムにぴったりだ。とりわけ両手でのぼっていく重音のスタッカートは誰もが苦労するものだが、先生は見事な指さばきで鮮やかに弾かれる。表面的な華麗さに耳を奪われがちだが、実は堅固な和声的構築にもとづき、太い線でぐいぐいと押していく迫力にも圧倒される。
ここでプログラムに書いた演奏がすべて終わり、客席からは再び拍手。
「ありがとうございます。先生は、今となってみればご丈夫だった最後の演奏会で、とても興に乗っていらして、珍しく3回もアンコールなさっています。先生のアンコールといえば、まずドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』『ミンストレル』、ショパン『練習曲作品25−1』や『同25−2』『夜想曲作品9−2』などでした。この日は練習曲2曲に加えて『ワルツ作品64−2』も弾かれています。残念ながら映像はないですが、そのアンコールの音をお聞きいただいて、終わりにしたいと思います。この音は、当時高校生だったあるファンの方が録音してずっと大切に持っていらしたのをコピーしていただいたものです」
音源を保存していらしたのは、当時地方の高校生だった方だ。一年の冬、テレビで安川先生の演奏会の録画を見て、「舟歌」のクライマックス部分でこれまで体験したことのない感動に襲われ、気がついたらテレビの前で涙を流していたという。この方はその体験を作文に書き、『音楽鑑賞教育』という雑誌の作文に応募したところ、入賞した。
そんな思い出とともに送られてきたのは、NHKホールでの演奏会の録音だった。私たちが入手した映像にはアンコール曲はショパン『練習曲作品25−1』だけだった(しかも映像は途中で途切れていた)が、録音ではさらに『ワルツ作品64−2』と『練習曲作品25−2』も収録されていた。
当初は『ワルツ』だけを聴いていただこうと思っていたのだが、リハーサルのときに聴いてみたら、『練習曲作品25−2』はさらに感動的な演奏なので、最後にこの2曲を聴いていただこうと思ったわけだ。
どちらも、プログラムを演奏し終えたあとの高揚した気分がよく味わえるが、なかでも『練習曲作品25−2』はすばらしい。先生の右手からくりだされる繊細な6連音符を左手の三連音符が支え、からみあい、見事なアラベスクを紡ぎあげる(夜の部のトークではここを「アルペジオ」と間違えてしまった。痛恨のミス!)。
昼の部も夜の部も、終了後、ロビーに出て行ったら多くの方に囲まれた。
昼の部には野田暉行さんを安川先生の霊が呼ぶ(!)という感動的なハプニングがあり、こちらも高揚した気分がしばらくつづいた。夜の部にはその手は使えなかったし、そのぶん、立ち上がりが鈍かったように思うが、後半の『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』を見ているうちにどんどん音楽が身体に入り込んできて、後半のショパン・プログラムは昼の部より感情移入してトークすることができたように思う。
1978年という年は安川先生がエリザベート国際コンクールの審査に行かれて、日本人が誰も入賞できなかったのである種の挫折感をいだいたまま帰国、空港で肩に異変を感じたときである。先生はそのとき、「日本人が欧米のピアニストに追いつくまでにはあと25年はかかるだろう」と思われたという。それからとっくに25年はすぎているが、そして、その間日本のピアノ界は大進歩をとげ、国際舞台に進出しているはずなのだが、昨年のショパンコンクールでは再び振り出しに戻ってしまった・・・ような気がした。
いったい何なのだろう? 本物の脱力、本物のリズム感、本物の色彩感、本物の解釈とそれにむすびついたテクニック、アスリートと比べてもほれぼれするようななめらかで無駄のない動き。さりげない、でも美しいステージマナー、ドレス、仕種、たたずまいのすべて。何よりも、個より公のことをまず第一に考える姿勢、広い視野と暖かい心。
私は1999年に刊行した『翼のはえた指』で、「日本のピアノ界が頭打ちになっているのは安川加壽子が足りないからだ」と書いたが、その気持ちは今も変わっていない。
私は、評伝を書いたときもそうだったが、門下生だから安川加壽子先生のことを紹介したいと思ったのではない。真に偉大な音楽家で、生前にその希有なご存在がすべて理解されたとは思えなかったので、その隙間を−少しでも−埋めたかったのだ。
打ち上げを終えて帰宅したら、いくつか感想メールがはいっていた。
「初めて演奏とお姿を拝見したのですが、流麗でかつ衣装なども本当に美しく、当時の方々が憧れの眼差しで熱狂したのもうなずけました。あのような流れるようなショパン、あまり最近では聴かないように思います」
これは若い音楽学者の卵さん。
「初めて安川加壽子先生の演奏されている姿を拝見しました。衝撃でした。インタビューの内容もすばらしかったです。
お話では幾度も、安川先生はこうであったといろいろな形で伺って来たのですが、実際目にすることができて本当に良かったです。映像を観たというよりも、本当に生の演奏会を観たような、生々しさ、鮮烈な印象を受けました」
こちらは元音楽雑誌の編集さん。
夜の部には子供たちもたくさんきていた。願わくば、彼ら彼女らの中に「安川加壽子」が根付き、いつか美しい実をむすばんことを。

7/31追記:関連記事
ジェローム・ロビンスのバレエとアンリ・バルダ その1
2011年5月25日、15年ごしぐらいの『グレン・グールド 未来のピアニスト』をゲラ戻しした。私の常として3校まで真っ赤にした(私は歴代の編集者たちから「赤字大魔王」と呼ばれている)ので、刊行は7月上旬ぐらいだろうか。
前回の日記で書いたように、4月26日から2週間、パリとウィーンに出かけた。
パリのほうは、秋の室内楽の合わせが目的。1度だけバスティーユのオペラ座でプッチーニ『トスカ』を観た以外は、スタジオにこもりっきりで練習していた。2日にウィーンに移動。こちらも、次の本でとりあげるアンリ・バルダがウィーンのオパー( オペラ座) に出演するので、その取材がてらということだが、観光とオペラ見物も兼ねている。
ウィーンの旅は、バルダ追っかけ隊仲間でピアノ教師の川野洋子さん。ルーム・シェアするホテルもオパーのチケットも、全部彼女が手配してくれた。私は16時50分シャルル・ドゴー発、18時55分ウィーン着の便。川野さんは19時05分着の便。ホテルのピックアップを頼んで出口で待ち合わせましょうということになった。
私の飛行機は少し早く着いてしまい、荷物もあっという間に出てきた。出口では、ピックアップのお兄ちゃんが川野さんの名前を書いたプラカードを持って立っている。
私一人かと思ったらしく、荷物を持ってさっさと歩きだそうとするので、友達がもう一人いて、もう少しあとの飛行機でくると説明する。といっても、お兄ちゃんはドイツ語しかしゃべらないし、私はフランス語しか話せない。片言の英語で「ワタシ、フランスから、トモダチ、ニホンカラ、ベツノヒコーキデキタアルネ、スコシマッテ・・・」とか何とか伝えようとする。
そうこうしているうちに川野さんが到着したので一件落着。車に荷物を積んで、ウィーン市内へ。宿泊先はオパー近くのアパートメント・ホテル。65平米もあって2人で6泊して490ユーロというからめちゃくちゃ安い(ちなみに、パリで泊まっていたホテルはやはり6泊で同じぐらいの値段。ただし18平米)。
到着したところでお兄ちゃんが建物の入り口とアパートメントの鍵と、大家さんの手紙を渡してくれた。部屋は日本式の2階で番号は鍵に書いてあるとおりだという。あとのガイドはなし。ホテルのようにフロントもなし。で、それからがちょっと大変だった。

アパートの中にはいったはいいのだが、廊下の真ん中の白いエレベーターに乗って2階に行ってみても、鍵に書いてある部屋がいっかな見つからないのだ。ここかしらと思って鍵穴に鍵をさしこんでガチャガチャやっていたら、よそのお宅だったり。
重い荷物をかかえてあこちこ探しまわったあげく、廊下の奥のほうに緑色のエレベーターを発見した。そういえば大家さんの手紙に、グリーン・エレベーターと書いてあったっけ。

それに乗って上に行くとめざしていた部屋があり、無事入居することができた。
白を基調としたきれいな部屋だ。玄関ホールの正面にキッチンがあり、右手にバス・ルーム、その並びに寝室。居間兼食堂にはソファとテレビ、楕円形の食卓テーブル、椅子が置かれ、その奥にクローゼット兼寝室がもう一部屋。川野さんは寝室に、私はデスクのあるクローゼットのほうで休むことにした。
お腹がすいたので真向かいのレストランに行く。川野さんはグラーシュ、私は鳥のフリカッセ・ライス添えを頼み、ビールで乾杯。ウィーンは物価が安く、レストランでも15ユーロぐらいでお腹いっぱい食べられる。パリならせいぜい昼食のお値段である。
食事をすませたあと、寝る前に水を買わなければというのであちこち歩いたが、日本と違ってコンビニなどという便利なものはない。パリだとアラブ人の経営する食料品店が夜遅くまでやっているので水ぐらい買えるのだが、それもない。結局、バーのようなところで小さなボトルを買い、部屋に戻って就寝。
次の日は買い出し。宿のすぐ近くにスーパーがあり、何でも売っている。ハム売り場では、ごろんところがったいろいろな種類のハムをその場で切ってくれる。生ハム、ペッパーつきソーセージ、ベーコン、ボロニア・ソーセージ風のものを何種類か購入。付け合わせのピクルスも。
次に野菜売り場。野菜は何でも大きくて、これはパリでも同じだが、びっくり。サラダ用の野菜とトマト、ズッキーニ、にんじん、タマネギ、マッシュルーム、ホワイトアスパラガスを購入。肉売り場で七面鳥のロースト用塊まり肉があったので、それも買い、ロースト用のスパイスも購入。スパークリングワインに赤ワインに水に牛乳にヨーグルトに粉末スープに・・・と買っていったらすごい荷物になった。
朝食兼昼はパンとコーヒー、ジャム入りヨーグルト、ソーセージ数枚にサラダにスープと豪華。川野さんは早速ウィーン見物、私は部屋で仕事をしつつ料理をつくる。というのも、初日の公演後、バルダはバレエ関係者と会食で、私たちにはつきあえないとメールを打ってきたからだ。
午前中に買っておいた七面鳥ににんにくを詰め、ロースト用スパイスを塗りたくってフライパンで焼き目をつけ、別の鍋をかぶせてじっくり焼く。ガスレンジに点火装置がついていないため、マッチで火をつける。久しぶりなのでちょっとこわい。野菜はズッキーニやにんじん、たまねぎ。ローストだけつくっておいて、あとはパスタでも付け合わせれば立派なメインになる。
夜はいよいよバルダが出演する「Hommage an Jerome Robbins (ジェローム・ロビンスへのオマージュ)」を観るためにオパーに行く。
ロビンスは『ウェストサイド物語』の振付師として有名だが、その彼が1956年、つまり『ウェストサイド』の最初の振り付けをする前の年に制作したのが、ショパンの音楽をアレンジした『ザ・コンサート』である。『子守歌』や『24の前奏曲』抜粋、『バラード第3番』などをバックに、ダンサーたちがコミカルな演技と舞踊をくりひろげる。
ついで、1970年にはショパンのノクターンをベースにした『イン・ザ・ナイト』が制作された。1991年には『アザー・ダンス』という、やはりショパンのワルツやマズルカにもとづくナンバーも振り付けされている。
バルダは、1989年からこのショパン・ナンバーのピアニストをつとめ、パリや東京をはじめさまざまな都市で公演に参加している(1992年2月6日には東京文化会館でパリ・オペラ座バレエ団のガラ・コンサートがおこなわれ、バルダも『イン・ザ・ナイト』のピアニストとして参加したようだ。曲目表には「ヘンリー・バルダ」と出ていて思わず笑ってしまった)。その当時はバルダのことを知らなかったので観る機会もなく、ただ、ドビュッシーのセミナーの元受講生のお一人がたまたま、2001年3月(このときがパリでの最後の公演だったらしい)を観ていて、プログラムを貸してくださった。
みると、バルダは単なるバレエ・ピアニストではなく、舞台の上でピアノを弾き、最後は演技も披露している。是非一度観たいものだと思ったが、なかなか機会がなかった。
公演は2011年5月3、5、7日と14日、そして29日の昼夜と6月1日の計7回である。必死でスケジュール調整をして、ゴールディンウィークにかけての3、5、7日の公演を観に行くことにした。出発前日にグールド論の再校を戻し、後書きも入校し・・・と何とかこなした。ネズミに咬まれたのが余計だったけれど。
ウィーンのオパーで久しぶりに出し物を見るのも楽しみだった。思えば、留学生時代、ウィーンに留学していた同級生からオパーのすばらしさを教えられ、学校が休み(フランスの音楽院は休みだらけだ。10月にやっと新学期がはじまったと思ったら11月の休み、それが終わるとクリスマス休暇、2月の休み、復活祭は2週間。6月には終了であとは3ヶ月の夏休み・・・)になるとチケットを取ってもらって、1週間とか2週間とか出かけていったものだ。
そのころは超ド級の歌手たちの全盛期をちょい過ぎたあたりか、とにかくビルギット・ニルソン、ギネス・ジョーンズ、ペーター・シュライヤー、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウなどがちょいちょい出演していたものだ。つい先頃亡くなったペーター・ホフマンもまだ出始めのころだったように記憶している。
貧乏学生時代は天井桟敷だったが、今回は川野さんと相談していろいろ工夫してチケットを取った。1日目は全体を見渡したいので、2階正面少し左寄りのボックス席最前列。110ユーロ。2日目は近くで観たいので一階席最前列の左。ここが130ユーロ。3日目はちょっと倹約して上のほうの席。これが8ユーロ。
初日の席は本当によかった。ほぼ真正面に舞台が見え、遠すぎず近すぎず。久しぶりに座るウィーンのオパーは金色に縁取りされた海老茶色の座席が典雅なことこの上ない。
最初の出し物は『グラス・ピース』。フィリップ・グラスの音楽にロビンスが振り付けた現代バレエで、1983年にニューヨーク・シティ・バレエ団によって初演されている。身体にぴったりしたウェアを着けたダンサーたちが、早足でステージをすすみながら、次々にアクロバット的な踊りを披露する。抽象的な美しさに満ちたバレエだったが、音楽はくり返しが多く、だんだん眠くなってくる。モーヴ・グリーンやヴァーミリオン、オレンジ、レモン・イエローなどを使ったステージ衣裳はとてもきれいだった。
演目ごとに20分の休憩があり、ロビーに出る。
やはりオペラの観客とはずいぶん雰囲気が違う。元ダンサーらしきスタイル抜群のおばさまが飲み物を片手に紳士に手をとられ、ゆっくりとロビーを行ったりきたり。優雅な風景だ。バレエを習っているとおぼしき女の子もいる。足のはこび、ドレス、頭の結い方からなんとなくわかる。彼女たちにとっては夢の舞台なんだろうなぁ。
さて、いよいよ待ちかねたバルダ出演のナンバー『イン・ザ・ナイト』。ショパンの4曲のノクターンに乗って3組の男女がそれぞれの愛の形を踊るという内容だ。
舞台の背景には一面に星のような明かりが点々と灯り、とてもきれい。ピアノは舞台の上ではなく、オーケストラ・ピットと同じ高さに置かれている。ウィーンだから、当然ベーゼンドルファーの、セミコンぐらいかな。大丈夫かしらとちょっと心配になる。というのは、バルダがベーゼンで弾いたのを聴いたことがないし、ときどきピアノに無理じいするバルダの弾き方だとベーゼンが悲鳴を上げてしまいかねないからだ。
袖から燕尾服姿のバルダがあらわれて一礼し、ピアノに向かう。譜面は持っているが、譜面台に並べず、床に置く。そのまましばらく舞台のほうを見やっている。闇の中に男女一組のダンサーがあらわれたのを見るや、おもむろに最初のノクターンを弾きはじめる。 何と美しい舞台だったことだろう!
作品27−1嬰ハ短調。ゆるやかな左手のアルペジオに乗ってすべるように舞台中央に出てきたダンサーたち。トゥ・シューズをはいてピンキッシュ・ヴァイオレットの衣裳をつけた女性が、男性にかかえられながら、音楽の醸しだす情感に沿って手をひらひらさせたり、足を美しく折り畳んだりのばしたり、ふわりと旋回したり、優雅に踊る。
クラシックバレエではこうした動作ひとつひとつに象徴的な意味があるらしいが、私はそれを知らない。ただひとつわかるのは、ロビンスの振り付けがショパンの音楽の心の襞をすみずみまでとらえ、ピアノ演奏とダンサーの動きが高度な次元で一体化しているということだ。たとえば音楽が激してくると、ダンサーがあごをあげて美しい首の線をみせ、左右に大きく身体を振りながらステップを踏む。それを男性が抱き留める。男性の腕の中でも女性はなお身体を斜めに傾けて激しく揺れる。あるいは、いったん男女が離れ、お互いに腕を広げながら踊り寄り、激しく抱き合うといった動作が、音楽の振幅にぴったりはまっているのだ。
ノクターン作品55−1は、4分音符のゆったりした動きに合わせて一組の踊り手が大きくステップを踏みながら舞台の中央にしずしずと歩みよってくる。ピアニストの右手がトリルを奏でる部分では、男性が手をさしだし、女性が優雅なやり方でその手をとる。旋律が装飾されはじめると、女性は片足でゆっくりと旋回する。あるいは、男性が女性を持ち上げる。旋律はだんだん細かく装飾され、それにつれて女性も細かく旋回し、ときに足をはね上げる。ピアノの情念の高まりとダンサーの動作がぴたっと合っている。カデンツァ風の部分ではとりわけ情熱的に旋回し、締めのアッコードで男性が女性をリフトすると、気持ちまでふわっと浮き上がるようだ。
再現部前は女性がシンコペーションごとにのびあがる強いステップを踏み、やがて男性が女性をさかさに持ち上げたまま、元の旋律が再現される。空中にいる間から女性が両足を細かく動かしはじめ、そっと床におろされると、ピルエットのまま遠ざかっていくところがとくに美しかった。長いコーダではピアノの高音がかすかにきらめき、それにつれて女性は彼方を旋回しながらだんだん男性に近づいていく。ショパン特有の和音外音が、細かく変化するステップにまとわりつき、次第にほぐれていくさまが心地よい。
作品55−2はもっとも情熱的なナンバーだ。今恋をしている人、あるいは恋を失ったばかりの人は身につまされてしまうのではないだろうか。このノクターンはいきなりフォルテのトリルではじまるので、ダンサーたちも高いリフトからはいる。女性が男性に倒れかかったり、男性が女性をさかさに倒立させたり、抱き抱えたままぐるぐるふりまわしたりする。女性のスカートは2枚仕立てで、上はエンジに黒っぽいチュールのレース。真ん中部分が裂けていて、踊ると下の赤い布が見え隠れするような仕立てになっていて、これが効果的だった。
キスのような仕種のあと、女性は男性から離れる。男性が懇願しても顔をそらし、一人で踊る。何かすれちがいが生じたらしい。
うつろいゆく心理を、バルダの弾くノクターンの、逡巡するような旋律と思いをあおるような左手のからみあいが濃密に描き出す。右手が同じ音を弾いている間、左手が微妙に色合いを変えるあたりは見事。女はいったんステージを出ていき、ひとりさびしくたたずむ男。ピアノの10連音符とともに再び女はあらわれるが、二人の差し出す手のタイミングが微妙に合わない。ピアノの旋律が半音ずつずれながらじりじり下降していくあたり、見ているほうもじれったくなってしまう。バルダは、右手の7連音符の装飾音で恋人たちの気持ちをかきたてる。なだれこむような12連音符で女は床に倒れ込み、今度は男がステージを去る。手をのばし、つなぎとめようとする女。この4小節は本当にせつない。クレッシェンドとともに男は飛ぶようにあらわれ、女も情熱的に応える。
最後は男性と女性がそれぞれの袖に消え、コーダにはいってしばらくすると、二人ともしずしずと歩み出る。男性が立ち止まり、女性はひたひたと歩み寄る。たった4小節のドラマ。女性はいつくしむように男性の頭から肩から胸から脚まで、互い違いの手で触れ、それから和音とともに足元にひれふす。男性はその手を取って立ち上がらせる。
フィーナーレはノクターン作品9−2に合わせて1組ずつの男女がそれぞれの部分を舞い、最後に、3組がそろって踊る。途中、男と男、女と女の危険な組み合わせになることもあるが、ピアノのきらめくカデンツァとともにもとの鞘におさまり、男性がそれぞれのパートナーをリフトしてステージからさっと消える。
バルダのピアノがいかに巧みかというと、ダンサーたちの予備動作も含めてすべての身体の動きを音楽的に処理していることだ。女性ダンサーが足を出すときも、まず股の外側の筋肉を緊張させ、次ぎに膝をやわらかく回転させ、トゥシューズでいやが上にも強調された甲を美しく見せるような方向ですっと差し出す。バルダは、その余りのような動作と音楽の拍と拍の余りを見事に合致させてしなやかに音楽をつける。ちょっとした手の動きの緩急にまで神経をゆきとどかせてテンポを速めたり、ゆるめたりする。
観ていると、まるで「時」そのものがダンスしているような錯覚にとらわれる。
再度20分の休憩があり、最後の演目『The Concert 』は一転してコミカルなナンバーである。
舞台上にベーゼンの大きなピアノがおかれ、バルダがステージ上を歩いてピアノの前までくる。燕尾服の尻尾をわざとはねあげての椅子に座る。ズボンのポケットから巨大なハンカチを出して(バルダは実際は弾く前にハンカチを使わないのだが)ピアノの鍵盤を丁寧に拭く。ところが、ものすごいほこりが舞い上がり、観客が大笑いする(実際には、この粉は松脂だそうな)。バルダは大げさに両手をあげ、祈るしぐさをする(ここでは観客はあまり笑わず、バルダはちょっと傷ついてしまう)。
それからおもむろに『子守歌』を弾きはじめる。折り畳み椅子を持ったダンサーが一人ずつはいってきて、椅子をひろげて座り、聞き入る。これがコンサートという見立てなのだろう。いかにもダンサーらしく、足を組むときわざと上までピンとはねあげて観客の笑いを誘う。ツンとすました顔の奥様と尻の下に敷かれているらしい亭主がはいってくる。音楽に興味のない亭主は新聞を広げて読むふりをする。ネクタイを締めた座席係がはいってきて、ダンサーたちのチケットと座席を照会する。座席が違うと変えさせる。その他、マナーを知らないダンサーが大きな音を立てたり、感激しすぎたダンサーが大げさな身振りをしてピアノに抱きついたり、いろいろと騒ぎが起きる。
最後に全員が椅子をたたんで舞台を去り、一組の男女が残ったところで曲は変わって、カデンツァ風の『前奏曲』第18番で踊る。和音の終止からオーケストラがはいり、今度は追っかけっするような『前奏曲』第16番に乗って、男性が硬直した女性ダンサーを抱き抱えたまま忙しく走りまわる。バルダの16番はテンポが速いので、踊るほうも大変そうだ。途中からオケが加わり、今度は遺作の『ワルツ15番』に合わせて6人の女性ダンサーが踊る。中で一人、眼鏡をかけたダンサーが振り付けをいつも間違え、仲間から顰蹙を買う。このワルツは本来はテンポが速いのだが、ダンサーのステップに合わせてゆっくり弾かなければならず、バルダはいらいらするようだ。曲は再び追っかけっこする『前奏曲』第16番に戻り、オーケトスラが終止したあとマズルカ風の『前奏曲』第7番が奏でられる。
椅子に座った女性がいろいろな帽子を試着するシーンである。ステキな帽子なのに似合わないと不満な顔をするたびにバルダがピアノの上のほうをチンと鳴らす。鳥の羽毛のような円い大きな帽子が気に入り、得意気に歩きだすが、同じ帽子をかぶった女性に出くわして、がっかりしてうなだれながら出ていく。椅子には、前のシーンに出てきたツンとした奥様が座り、うっとりと音楽を聴いている間に、ナイフを隠しもった夫が妻を刺し殺そうと試みるが、うまくいかない。ナイフがゴムでできているらしく、いくら刺しても奥様は何も感じないのだ。ところで、夫がためしに自分を刺してみると、ちゃんと刃が刺さってしまう。うめきながら出ていく夫に妻は、「しーっ、静かに」とたしなめる。ブラック・ユーモアのあとは軍隊行進曲のように威勢のよい『マズルカト短調』。雨がふる美しいシーンでは、しっとりした『前奏曲』第4番が奏でられる。
最後は『バラード第3番』をピアノが演奏する中、蝶々の扮装をしたダンサーたちが空中ピルエットをまじえてアクロバティックなダンスを披露する。このバラードは妖精が踊るようなステキが場面が続出するのだが、ロビンスの振り付けは、ノクターンとは一転してとてもそっけなく、音楽の浮遊感があまり活かされていないのが残念だった。それでもまだバルダ一人で弾いている間はよいのだが、途中からオーケストラが加わると、オケとピアノが同じ旋律をなぞるので、ピアノの音がかき消されてしまう。これは、協奏曲の原理を知らない編曲者の失敗だろう。ほとんど双方の音が聞こえない中で弾いている上に、指揮者とバルダのテンポ感がまるで違うため、オケとピアノが平気で一小節ぐらいずれていたりする。聴いている私たちは必死で拍子をとっていた。
あちこちで齟齬をきたしたスリリングな『バラード第3番』が最高潮に達したところで、あまりの騒ぎに憤然としたピアニストはバタンとピアノの蓋を閉め、ステージを出て行ってしまう。巨大な昆虫採集の網を持って再登場したピアニストが蝶々ダンサーたちをつかまえにかかるというところでおしまい。
実際に昆虫採集が大好きなバルダが網を持って出てくるところは個人的には笑えるのだが、バルダは蝶々をことごとくはずす。それもそのはず、一度ダンサーの一人を捕らえたらとても嫌な顔をされた、とか。見えない苦労があるのだな。
スペクタクル終了後はカーテンコールである。まずダンサーたちがひとわたり拍手に応えたあと、バルダもステージに出てきて、挨拶する。それからバルダは下がってダンサーたちと手をつないで再び中央にすすむのだが、あるとき、ダンサーの一人がバルダと手をつなぐのを忘れたため、ちょっと気まずい場面があった。


バルダも盛大な拍手を受けていたし、その熱狂ぶりは、少なくとも指揮者のそれよりは勝っていたと思う。しかし、オパーの客席の大半は、やはりバレエを観にきているお客さんたちで占められていたのだ。『The concert』ではやや不満な面もあったが、『In the night』は音楽と舞踊の完璧なコラボレーションで、振り付けとダンサーたちの動きを熟知しているバルダの功績大だったのだが、客席にどこまでその隠れた意味が伝わったか。単にダンサーたちに熱烈な拍手を贈る人もたくさんいただろう。
バルダのしなやかなピアノ、あらゆる情緒表現にフィットする感性がどれだけ舞台の芸術的な完成度を高めたか、それを真にわかるのは私たちだけだ、と川野さんと語り合ってオパーを出た。夜風が気持ちいい。川野さんはオパーの夜景を写真に撮っている。最高の気分のときに私の携帯が鳴った。
バルダである。「すばらしかった!」と言おうとしたら「お前たち、来なかったのか!!」というどなり声。「もちろん行ったよ。今出てきたところ」「だって、いなかったじゃないか!!」。
あっ、招待席。実は、ウィーンに着いたあとバルダから電話があった。
「主催者側が招待券をばらまいている(これはよくあることだ。きっとチケットが売れていないのだろう、と解釈した)。だから招待することはできるが、座席には気をつけなければならない。舞台がろくに見えない席を割り当てられる可能性があるからだ」と、バルダは言う。つまり、あんまりあてにするなというふうに受け取った。
とはいえ、招待枠だからよい席に違いないという期待もあったのである。だから、一応用意してもらって比べてみようぐらいの軽い気持ちだった。これはあとになってきいたことだが、バルダのほうは、私たちがよい席に座れるよう、事務局側とずいぶん交渉したらしい。結果、最前列の右寄りという席が用意された。
残念なことに、初日に私たちが取った席のほうがずっとよかった。私はもともと何かの公演を観るとき、最前列は好きではない。近くを好む人もいるが、全体を見渡せないし、ホール音響がよくわからない。むしろ舞台が遠い席のほうが好きだった。
それでも、せっかく招待してくれたのだから、と休憩中にその席まで行ってみたのだが、本当のかぶりつき。しかもオーケストラピットが間にはいっているので、舞台がけっこう遠い。ダンサーの脚先も見えにくそうだ。「これなら元の席のほうがいいね」とまた戻ってしまったのである。
私たちは知らなかったのだが、最前列というのは舞台関係者にとっては特等席らしい。初日の特等席が2席もあいている・・・。バルダは演奏しながら私たちのいるはずの席を見て怒り心頭に発していたらしい。怒り狂いながら、あのすばらしい演奏・・・。
と感心している間もなく、「お前たちはオオバカ者だ!!」という罵声とともに電話はガチャン。それまでの感激もどこへやら、川野さんとしょげかえってホテルに戻った。
スパークリングワインはギンギンに冷えていたし、ハム類はどれもおいしく、七面鳥のローストは中がほんのり桃色の最高の出来。つけあわせの野菜もこんがり焼き色がついて香ばしく、最高のディナーのはずだったのに。
「大丈夫だよ、あした私がおわびの手紙を書くから」という川野さんのひとことで少し気分をもちなおし、ウィーンの第2夜が終わった。(つづく)
前回の日記で書いたように、4月26日から2週間、パリとウィーンに出かけた。
パリのほうは、秋の室内楽の合わせが目的。1度だけバスティーユのオペラ座でプッチーニ『トスカ』を観た以外は、スタジオにこもりっきりで練習していた。2日にウィーンに移動。こちらも、次の本でとりあげるアンリ・バルダがウィーンのオパー( オペラ座) に出演するので、その取材がてらということだが、観光とオペラ見物も兼ねている。
ウィーンの旅は、バルダ追っかけ隊仲間でピアノ教師の川野洋子さん。ルーム・シェアするホテルもオパーのチケットも、全部彼女が手配してくれた。私は16時50分シャルル・ドゴー発、18時55分ウィーン着の便。川野さんは19時05分着の便。ホテルのピックアップを頼んで出口で待ち合わせましょうということになった。
私の飛行機は少し早く着いてしまい、荷物もあっという間に出てきた。出口では、ピックアップのお兄ちゃんが川野さんの名前を書いたプラカードを持って立っている。
私一人かと思ったらしく、荷物を持ってさっさと歩きだそうとするので、友達がもう一人いて、もう少しあとの飛行機でくると説明する。といっても、お兄ちゃんはドイツ語しかしゃべらないし、私はフランス語しか話せない。片言の英語で「ワタシ、フランスから、トモダチ、ニホンカラ、ベツノヒコーキデキタアルネ、スコシマッテ・・・」とか何とか伝えようとする。
そうこうしているうちに川野さんが到着したので一件落着。車に荷物を積んで、ウィーン市内へ。宿泊先はオパー近くのアパートメント・ホテル。65平米もあって2人で6泊して490ユーロというからめちゃくちゃ安い(ちなみに、パリで泊まっていたホテルはやはり6泊で同じぐらいの値段。ただし18平米)。
到着したところでお兄ちゃんが建物の入り口とアパートメントの鍵と、大家さんの手紙を渡してくれた。部屋は日本式の2階で番号は鍵に書いてあるとおりだという。あとのガイドはなし。ホテルのようにフロントもなし。で、それからがちょっと大変だった。

アパートの中にはいったはいいのだが、廊下の真ん中の白いエレベーターに乗って2階に行ってみても、鍵に書いてある部屋がいっかな見つからないのだ。ここかしらと思って鍵穴に鍵をさしこんでガチャガチャやっていたら、よそのお宅だったり。
重い荷物をかかえてあこちこ探しまわったあげく、廊下の奥のほうに緑色のエレベーターを発見した。そういえば大家さんの手紙に、グリーン・エレベーターと書いてあったっけ。

それに乗って上に行くとめざしていた部屋があり、無事入居することができた。
白を基調としたきれいな部屋だ。玄関ホールの正面にキッチンがあり、右手にバス・ルーム、その並びに寝室。居間兼食堂にはソファとテレビ、楕円形の食卓テーブル、椅子が置かれ、その奥にクローゼット兼寝室がもう一部屋。川野さんは寝室に、私はデスクのあるクローゼットのほうで休むことにした。
お腹がすいたので真向かいのレストランに行く。川野さんはグラーシュ、私は鳥のフリカッセ・ライス添えを頼み、ビールで乾杯。ウィーンは物価が安く、レストランでも15ユーロぐらいでお腹いっぱい食べられる。パリならせいぜい昼食のお値段である。
食事をすませたあと、寝る前に水を買わなければというのであちこち歩いたが、日本と違ってコンビニなどという便利なものはない。パリだとアラブ人の経営する食料品店が夜遅くまでやっているので水ぐらい買えるのだが、それもない。結局、バーのようなところで小さなボトルを買い、部屋に戻って就寝。
次の日は買い出し。宿のすぐ近くにスーパーがあり、何でも売っている。ハム売り場では、ごろんところがったいろいろな種類のハムをその場で切ってくれる。生ハム、ペッパーつきソーセージ、ベーコン、ボロニア・ソーセージ風のものを何種類か購入。付け合わせのピクルスも。
次に野菜売り場。野菜は何でも大きくて、これはパリでも同じだが、びっくり。サラダ用の野菜とトマト、ズッキーニ、にんじん、タマネギ、マッシュルーム、ホワイトアスパラガスを購入。肉売り場で七面鳥のロースト用塊まり肉があったので、それも買い、ロースト用のスパイスも購入。スパークリングワインに赤ワインに水に牛乳にヨーグルトに粉末スープに・・・と買っていったらすごい荷物になった。
朝食兼昼はパンとコーヒー、ジャム入りヨーグルト、ソーセージ数枚にサラダにスープと豪華。川野さんは早速ウィーン見物、私は部屋で仕事をしつつ料理をつくる。というのも、初日の公演後、バルダはバレエ関係者と会食で、私たちにはつきあえないとメールを打ってきたからだ。
午前中に買っておいた七面鳥ににんにくを詰め、ロースト用スパイスを塗りたくってフライパンで焼き目をつけ、別の鍋をかぶせてじっくり焼く。ガスレンジに点火装置がついていないため、マッチで火をつける。久しぶりなのでちょっとこわい。野菜はズッキーニやにんじん、たまねぎ。ローストだけつくっておいて、あとはパスタでも付け合わせれば立派なメインになる。
夜はいよいよバルダが出演する「Hommage an Jerome Robbins (ジェローム・ロビンスへのオマージュ)」を観るためにオパーに行く。
ロビンスは『ウェストサイド物語』の振付師として有名だが、その彼が1956年、つまり『ウェストサイド』の最初の振り付けをする前の年に制作したのが、ショパンの音楽をアレンジした『ザ・コンサート』である。『子守歌』や『24の前奏曲』抜粋、『バラード第3番』などをバックに、ダンサーたちがコミカルな演技と舞踊をくりひろげる。
ついで、1970年にはショパンのノクターンをベースにした『イン・ザ・ナイト』が制作された。1991年には『アザー・ダンス』という、やはりショパンのワルツやマズルカにもとづくナンバーも振り付けされている。
バルダは、1989年からこのショパン・ナンバーのピアニストをつとめ、パリや東京をはじめさまざまな都市で公演に参加している(1992年2月6日には東京文化会館でパリ・オペラ座バレエ団のガラ・コンサートがおこなわれ、バルダも『イン・ザ・ナイト』のピアニストとして参加したようだ。曲目表には「ヘンリー・バルダ」と出ていて思わず笑ってしまった)。その当時はバルダのことを知らなかったので観る機会もなく、ただ、ドビュッシーのセミナーの元受講生のお一人がたまたま、2001年3月(このときがパリでの最後の公演だったらしい)を観ていて、プログラムを貸してくださった。
みると、バルダは単なるバレエ・ピアニストではなく、舞台の上でピアノを弾き、最後は演技も披露している。是非一度観たいものだと思ったが、なかなか機会がなかった。
公演は2011年5月3、5、7日と14日、そして29日の昼夜と6月1日の計7回である。必死でスケジュール調整をして、ゴールディンウィークにかけての3、5、7日の公演を観に行くことにした。出発前日にグールド論の再校を戻し、後書きも入校し・・・と何とかこなした。ネズミに咬まれたのが余計だったけれど。
ウィーンのオパーで久しぶりに出し物を見るのも楽しみだった。思えば、留学生時代、ウィーンに留学していた同級生からオパーのすばらしさを教えられ、学校が休み(フランスの音楽院は休みだらけだ。10月にやっと新学期がはじまったと思ったら11月の休み、それが終わるとクリスマス休暇、2月の休み、復活祭は2週間。6月には終了であとは3ヶ月の夏休み・・・)になるとチケットを取ってもらって、1週間とか2週間とか出かけていったものだ。
そのころは超ド級の歌手たちの全盛期をちょい過ぎたあたりか、とにかくビルギット・ニルソン、ギネス・ジョーンズ、ペーター・シュライヤー、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウなどがちょいちょい出演していたものだ。つい先頃亡くなったペーター・ホフマンもまだ出始めのころだったように記憶している。
貧乏学生時代は天井桟敷だったが、今回は川野さんと相談していろいろ工夫してチケットを取った。1日目は全体を見渡したいので、2階正面少し左寄りのボックス席最前列。110ユーロ。2日目は近くで観たいので一階席最前列の左。ここが130ユーロ。3日目はちょっと倹約して上のほうの席。これが8ユーロ。
初日の席は本当によかった。ほぼ真正面に舞台が見え、遠すぎず近すぎず。久しぶりに座るウィーンのオパーは金色に縁取りされた海老茶色の座席が典雅なことこの上ない。
最初の出し物は『グラス・ピース』。フィリップ・グラスの音楽にロビンスが振り付けた現代バレエで、1983年にニューヨーク・シティ・バレエ団によって初演されている。身体にぴったりしたウェアを着けたダンサーたちが、早足でステージをすすみながら、次々にアクロバット的な踊りを披露する。抽象的な美しさに満ちたバレエだったが、音楽はくり返しが多く、だんだん眠くなってくる。モーヴ・グリーンやヴァーミリオン、オレンジ、レモン・イエローなどを使ったステージ衣裳はとてもきれいだった。
演目ごとに20分の休憩があり、ロビーに出る。
やはりオペラの観客とはずいぶん雰囲気が違う。元ダンサーらしきスタイル抜群のおばさまが飲み物を片手に紳士に手をとられ、ゆっくりとロビーを行ったりきたり。優雅な風景だ。バレエを習っているとおぼしき女の子もいる。足のはこび、ドレス、頭の結い方からなんとなくわかる。彼女たちにとっては夢の舞台なんだろうなぁ。
さて、いよいよ待ちかねたバルダ出演のナンバー『イン・ザ・ナイト』。ショパンの4曲のノクターンに乗って3組の男女がそれぞれの愛の形を踊るという内容だ。
舞台の背景には一面に星のような明かりが点々と灯り、とてもきれい。ピアノは舞台の上ではなく、オーケストラ・ピットと同じ高さに置かれている。ウィーンだから、当然ベーゼンドルファーの、セミコンぐらいかな。大丈夫かしらとちょっと心配になる。というのは、バルダがベーゼンで弾いたのを聴いたことがないし、ときどきピアノに無理じいするバルダの弾き方だとベーゼンが悲鳴を上げてしまいかねないからだ。
袖から燕尾服姿のバルダがあらわれて一礼し、ピアノに向かう。譜面は持っているが、譜面台に並べず、床に置く。そのまましばらく舞台のほうを見やっている。闇の中に男女一組のダンサーがあらわれたのを見るや、おもむろに最初のノクターンを弾きはじめる。 何と美しい舞台だったことだろう!
作品27−1嬰ハ短調。ゆるやかな左手のアルペジオに乗ってすべるように舞台中央に出てきたダンサーたち。トゥ・シューズをはいてピンキッシュ・ヴァイオレットの衣裳をつけた女性が、男性にかかえられながら、音楽の醸しだす情感に沿って手をひらひらさせたり、足を美しく折り畳んだりのばしたり、ふわりと旋回したり、優雅に踊る。
クラシックバレエではこうした動作ひとつひとつに象徴的な意味があるらしいが、私はそれを知らない。ただひとつわかるのは、ロビンスの振り付けがショパンの音楽の心の襞をすみずみまでとらえ、ピアノ演奏とダンサーの動きが高度な次元で一体化しているということだ。たとえば音楽が激してくると、ダンサーがあごをあげて美しい首の線をみせ、左右に大きく身体を振りながらステップを踏む。それを男性が抱き留める。男性の腕の中でも女性はなお身体を斜めに傾けて激しく揺れる。あるいは、いったん男女が離れ、お互いに腕を広げながら踊り寄り、激しく抱き合うといった動作が、音楽の振幅にぴったりはまっているのだ。
ノクターン作品55−1は、4分音符のゆったりした動きに合わせて一組の踊り手が大きくステップを踏みながら舞台の中央にしずしずと歩みよってくる。ピアニストの右手がトリルを奏でる部分では、男性が手をさしだし、女性が優雅なやり方でその手をとる。旋律が装飾されはじめると、女性は片足でゆっくりと旋回する。あるいは、男性が女性を持ち上げる。旋律はだんだん細かく装飾され、それにつれて女性も細かく旋回し、ときに足をはね上げる。ピアノの情念の高まりとダンサーの動作がぴたっと合っている。カデンツァ風の部分ではとりわけ情熱的に旋回し、締めのアッコードで男性が女性をリフトすると、気持ちまでふわっと浮き上がるようだ。
再現部前は女性がシンコペーションごとにのびあがる強いステップを踏み、やがて男性が女性をさかさに持ち上げたまま、元の旋律が再現される。空中にいる間から女性が両足を細かく動かしはじめ、そっと床におろされると、ピルエットのまま遠ざかっていくところがとくに美しかった。長いコーダではピアノの高音がかすかにきらめき、それにつれて女性は彼方を旋回しながらだんだん男性に近づいていく。ショパン特有の和音外音が、細かく変化するステップにまとわりつき、次第にほぐれていくさまが心地よい。
作品55−2はもっとも情熱的なナンバーだ。今恋をしている人、あるいは恋を失ったばかりの人は身につまされてしまうのではないだろうか。このノクターンはいきなりフォルテのトリルではじまるので、ダンサーたちも高いリフトからはいる。女性が男性に倒れかかったり、男性が女性をさかさに倒立させたり、抱き抱えたままぐるぐるふりまわしたりする。女性のスカートは2枚仕立てで、上はエンジに黒っぽいチュールのレース。真ん中部分が裂けていて、踊ると下の赤い布が見え隠れするような仕立てになっていて、これが効果的だった。
キスのような仕種のあと、女性は男性から離れる。男性が懇願しても顔をそらし、一人で踊る。何かすれちがいが生じたらしい。
うつろいゆく心理を、バルダの弾くノクターンの、逡巡するような旋律と思いをあおるような左手のからみあいが濃密に描き出す。右手が同じ音を弾いている間、左手が微妙に色合いを変えるあたりは見事。女はいったんステージを出ていき、ひとりさびしくたたずむ男。ピアノの10連音符とともに再び女はあらわれるが、二人の差し出す手のタイミングが微妙に合わない。ピアノの旋律が半音ずつずれながらじりじり下降していくあたり、見ているほうもじれったくなってしまう。バルダは、右手の7連音符の装飾音で恋人たちの気持ちをかきたてる。なだれこむような12連音符で女は床に倒れ込み、今度は男がステージを去る。手をのばし、つなぎとめようとする女。この4小節は本当にせつない。クレッシェンドとともに男は飛ぶようにあらわれ、女も情熱的に応える。
最後は男性と女性がそれぞれの袖に消え、コーダにはいってしばらくすると、二人ともしずしずと歩み出る。男性が立ち止まり、女性はひたひたと歩み寄る。たった4小節のドラマ。女性はいつくしむように男性の頭から肩から胸から脚まで、互い違いの手で触れ、それから和音とともに足元にひれふす。男性はその手を取って立ち上がらせる。
フィーナーレはノクターン作品9−2に合わせて1組ずつの男女がそれぞれの部分を舞い、最後に、3組がそろって踊る。途中、男と男、女と女の危険な組み合わせになることもあるが、ピアノのきらめくカデンツァとともにもとの鞘におさまり、男性がそれぞれのパートナーをリフトしてステージからさっと消える。
バルダのピアノがいかに巧みかというと、ダンサーたちの予備動作も含めてすべての身体の動きを音楽的に処理していることだ。女性ダンサーが足を出すときも、まず股の外側の筋肉を緊張させ、次ぎに膝をやわらかく回転させ、トゥシューズでいやが上にも強調された甲を美しく見せるような方向ですっと差し出す。バルダは、その余りのような動作と音楽の拍と拍の余りを見事に合致させてしなやかに音楽をつける。ちょっとした手の動きの緩急にまで神経をゆきとどかせてテンポを速めたり、ゆるめたりする。
観ていると、まるで「時」そのものがダンスしているような錯覚にとらわれる。
再度20分の休憩があり、最後の演目『The Concert 』は一転してコミカルなナンバーである。
舞台上にベーゼンの大きなピアノがおかれ、バルダがステージ上を歩いてピアノの前までくる。燕尾服の尻尾をわざとはねあげての椅子に座る。ズボンのポケットから巨大なハンカチを出して(バルダは実際は弾く前にハンカチを使わないのだが)ピアノの鍵盤を丁寧に拭く。ところが、ものすごいほこりが舞い上がり、観客が大笑いする(実際には、この粉は松脂だそうな)。バルダは大げさに両手をあげ、祈るしぐさをする(ここでは観客はあまり笑わず、バルダはちょっと傷ついてしまう)。
それからおもむろに『子守歌』を弾きはじめる。折り畳み椅子を持ったダンサーが一人ずつはいってきて、椅子をひろげて座り、聞き入る。これがコンサートという見立てなのだろう。いかにもダンサーらしく、足を組むときわざと上までピンとはねあげて観客の笑いを誘う。ツンとすました顔の奥様と尻の下に敷かれているらしい亭主がはいってくる。音楽に興味のない亭主は新聞を広げて読むふりをする。ネクタイを締めた座席係がはいってきて、ダンサーたちのチケットと座席を照会する。座席が違うと変えさせる。その他、マナーを知らないダンサーが大きな音を立てたり、感激しすぎたダンサーが大げさな身振りをしてピアノに抱きついたり、いろいろと騒ぎが起きる。
最後に全員が椅子をたたんで舞台を去り、一組の男女が残ったところで曲は変わって、カデンツァ風の『前奏曲』第18番で踊る。和音の終止からオーケストラがはいり、今度は追っかけっするような『前奏曲』第16番に乗って、男性が硬直した女性ダンサーを抱き抱えたまま忙しく走りまわる。バルダの16番はテンポが速いので、踊るほうも大変そうだ。途中からオケが加わり、今度は遺作の『ワルツ15番』に合わせて6人の女性ダンサーが踊る。中で一人、眼鏡をかけたダンサーが振り付けをいつも間違え、仲間から顰蹙を買う。このワルツは本来はテンポが速いのだが、ダンサーのステップに合わせてゆっくり弾かなければならず、バルダはいらいらするようだ。曲は再び追っかけっこする『前奏曲』第16番に戻り、オーケトスラが終止したあとマズルカ風の『前奏曲』第7番が奏でられる。
椅子に座った女性がいろいろな帽子を試着するシーンである。ステキな帽子なのに似合わないと不満な顔をするたびにバルダがピアノの上のほうをチンと鳴らす。鳥の羽毛のような円い大きな帽子が気に入り、得意気に歩きだすが、同じ帽子をかぶった女性に出くわして、がっかりしてうなだれながら出ていく。椅子には、前のシーンに出てきたツンとした奥様が座り、うっとりと音楽を聴いている間に、ナイフを隠しもった夫が妻を刺し殺そうと試みるが、うまくいかない。ナイフがゴムでできているらしく、いくら刺しても奥様は何も感じないのだ。ところで、夫がためしに自分を刺してみると、ちゃんと刃が刺さってしまう。うめきながら出ていく夫に妻は、「しーっ、静かに」とたしなめる。ブラック・ユーモアのあとは軍隊行進曲のように威勢のよい『マズルカト短調』。雨がふる美しいシーンでは、しっとりした『前奏曲』第4番が奏でられる。
最後は『バラード第3番』をピアノが演奏する中、蝶々の扮装をしたダンサーたちが空中ピルエットをまじえてアクロバティックなダンスを披露する。このバラードは妖精が踊るようなステキが場面が続出するのだが、ロビンスの振り付けは、ノクターンとは一転してとてもそっけなく、音楽の浮遊感があまり活かされていないのが残念だった。それでもまだバルダ一人で弾いている間はよいのだが、途中からオーケストラが加わると、オケとピアノが同じ旋律をなぞるので、ピアノの音がかき消されてしまう。これは、協奏曲の原理を知らない編曲者の失敗だろう。ほとんど双方の音が聞こえない中で弾いている上に、指揮者とバルダのテンポ感がまるで違うため、オケとピアノが平気で一小節ぐらいずれていたりする。聴いている私たちは必死で拍子をとっていた。
あちこちで齟齬をきたしたスリリングな『バラード第3番』が最高潮に達したところで、あまりの騒ぎに憤然としたピアニストはバタンとピアノの蓋を閉め、ステージを出て行ってしまう。巨大な昆虫採集の網を持って再登場したピアニストが蝶々ダンサーたちをつかまえにかかるというところでおしまい。
実際に昆虫採集が大好きなバルダが網を持って出てくるところは個人的には笑えるのだが、バルダは蝶々をことごとくはずす。それもそのはず、一度ダンサーの一人を捕らえたらとても嫌な顔をされた、とか。見えない苦労があるのだな。
スペクタクル終了後はカーテンコールである。まずダンサーたちがひとわたり拍手に応えたあと、バルダもステージに出てきて、挨拶する。それからバルダは下がってダンサーたちと手をつないで再び中央にすすむのだが、あるとき、ダンサーの一人がバルダと手をつなぐのを忘れたため、ちょっと気まずい場面があった。


バルダも盛大な拍手を受けていたし、その熱狂ぶりは、少なくとも指揮者のそれよりは勝っていたと思う。しかし、オパーの客席の大半は、やはりバレエを観にきているお客さんたちで占められていたのだ。『The concert』ではやや不満な面もあったが、『In the night』は音楽と舞踊の完璧なコラボレーションで、振り付けとダンサーたちの動きを熟知しているバルダの功績大だったのだが、客席にどこまでその隠れた意味が伝わったか。単にダンサーたちに熱烈な拍手を贈る人もたくさんいただろう。
バルダのしなやかなピアノ、あらゆる情緒表現にフィットする感性がどれだけ舞台の芸術的な完成度を高めたか、それを真にわかるのは私たちだけだ、と川野さんと語り合ってオパーを出た。夜風が気持ちいい。川野さんはオパーの夜景を写真に撮っている。最高の気分のときに私の携帯が鳴った。
バルダである。「すばらしかった!」と言おうとしたら「お前たち、来なかったのか!!」というどなり声。「もちろん行ったよ。今出てきたところ」「だって、いなかったじゃないか!!」。
あっ、招待席。実は、ウィーンに着いたあとバルダから電話があった。
「主催者側が招待券をばらまいている(これはよくあることだ。きっとチケットが売れていないのだろう、と解釈した)。だから招待することはできるが、座席には気をつけなければならない。舞台がろくに見えない席を割り当てられる可能性があるからだ」と、バルダは言う。つまり、あんまりあてにするなというふうに受け取った。
とはいえ、招待枠だからよい席に違いないという期待もあったのである。だから、一応用意してもらって比べてみようぐらいの軽い気持ちだった。これはあとになってきいたことだが、バルダのほうは、私たちがよい席に座れるよう、事務局側とずいぶん交渉したらしい。結果、最前列の右寄りという席が用意された。
残念なことに、初日に私たちが取った席のほうがずっとよかった。私はもともと何かの公演を観るとき、最前列は好きではない。近くを好む人もいるが、全体を見渡せないし、ホール音響がよくわからない。むしろ舞台が遠い席のほうが好きだった。
それでも、せっかく招待してくれたのだから、と休憩中にその席まで行ってみたのだが、本当のかぶりつき。しかもオーケストラピットが間にはいっているので、舞台がけっこう遠い。ダンサーの脚先も見えにくそうだ。「これなら元の席のほうがいいね」とまた戻ってしまったのである。
私たちは知らなかったのだが、最前列というのは舞台関係者にとっては特等席らしい。初日の特等席が2席もあいている・・・。バルダは演奏しながら私たちのいるはずの席を見て怒り心頭に発していたらしい。怒り狂いながら、あのすばらしい演奏・・・。
と感心している間もなく、「お前たちはオオバカ者だ!!」という罵声とともに電話はガチャン。それまでの感激もどこへやら、川野さんとしょげかえってホテルに戻った。
スパークリングワインはギンギンに冷えていたし、ハム類はどれもおいしく、七面鳥のローストは中がほんのり桃色の最高の出来。つけあわせの野菜もこんがり焼き色がついて香ばしく、最高のディナーのはずだったのに。
「大丈夫だよ、あした私がおわびの手紙を書くから」という川野さんのひとことで少し気分をもちなおし、ウィーンの第2夜が終わった。(つづく)
窮鼠人間を咬む?
4月21日夜、ネズミに咬まれた。
状況はこうである。
我が家のピアノ室と書斎は歩いて13歩の廊下で結ばれていることは、これまでもエッセイなどで書いてきたと思う。
その廊下の隅に、ネズミ取りがしかけてある。ボール紙にとりもちのようなべたべたする薬剤が塗ってあるものだ。
そこに、最近我が家の屋根裏に住み着いたネズミがひっかかった。
ボール紙は軽いものだから、ネズミがバタバタあばれるのに合わせて廊下の真ん中に出てきてしまったらしい。
とにかく、この廊下を書斎からピアノ室に向かって走っていた私の左足がネズミ取りのねばねばしたとりもちにひっかかり、同時に鋭い痛みを薬指に感じた。
最初は、ネズミ取りに何か金具がついているのかと思ったが、違った。円い目をしたネズミが我が足の指に咬みついている。
うわっ。
ネズミと人間サマが同じとりもちにひっかかってしまった。
私は必死の思いでネズミをふりほどき、ついでにとりもちから足をひきはがした。ネズミはまだバタバタあばれている。
明るいところで見たら、指から血が出ていた。
大変。
たしか、猫やネズミ、犬などに咬まれたらそこから病原菌がはいるかもしれないと言われている。どうすればよいのだろう? これがマムシだったら、すぐに咬まれた少し先をしばって血を吸い出すのだが。
娘にネットで調べてもらったら、まず石鹸でよく洗い、すぐ病院に行くように書いてある。放っておくと、まれにあとで熱を出したりショック死したりする例もあるらしい。
でも、病院といったって、もうどこも閉めているし。
傷口を洗うとともに足にへばりついたとりもちをこすりとり、オキシフルで消毒してバンドエイドを貼る。その間に、娘が救急医療センターに電話してくれるのだが、なかなかつながらない。
あきらめて、最寄りの総合病院の夜間診療に電話をした。
−−どうしました?
ときかれたので、「ネズミに咬まれました」と答える。
−−どんなネズミですか? 大きさは? 色は?
ネズミはまだ廊下のとりもちの上であばれているはずだが、見に行く勇気も起きない。 「普通の、灰色のネズミです」と答える。
−−それではなるべく早く来てください。
大急ぎで保険証を用意し、コートをはおって家を出る。
10分ほどで病院に着くと、夜間入り口からはいり、受付に行く。
深夜診療は会計が閉まってしまっているため、保険証を持って行っても1万円をデポジットしなければならないらしい。運良く持ち合わせがあったからよいが、本当の緊急の場合はどうしたらよいのだろう。
もっとも、パリでは病人はもっと邪険に扱われて、救急車を呼ぶと、運転手がまず病人に「運搬の代金を支払えるか」と尋ねるという。社会保険なしに救急病院など行こうものなら大変で、あとでウン百万の請求書が届くとか。
受付をすませて待合室にはいる。大病院の夜間診療といったら、ひっきりなしに救急車が到着し、緊急の施術が行われる・・・というようなシーンをテレビで見るが、まったくそんな緊迫した雰囲気ではなく、酔っぱらって担ぎ込まれたらしいおじさんが一人待っているだけだった。
ほどなく診察室に呼ばれ、若い女医さんが応対してくれる。
そのころにはもう血は止まっていて、女医さんがいくら調べても患部がよくわからないらしい。ネズミの歯はきっと小さかったのだろう。
−−何でネズミに咬まれたんですか?
シチュエーションがよくわからないらしい。
廊下にネズミ取りがあって、そこに足がひっかかって・・・。
−−どうして廊下にネズミ取りがあったんですか?
−−本当は隅に置いてあったのですが、ひっかかったネズミごと真ん中に出てきてしまって。
−−ああ、きっと暗かったんですね。
−−はい、それに急いでいて。
−−ネズミはどうしたんですか?
−−娘が外に放り出したらしいです。
−−あ、ネズミはね、ネズミ取りごと水につけるといいんですよ。
看護婦さんが言う。
−−ネズミや猫、犬などに咬まれると、一週間ぐらいたってから高熱が出たり、発疹が起きたりすることがあるんですよ。
女医さんからネットの情報と同じことを聞かされた。
−−でも、来週の火曜日には海外に出るんです。一週間後はパリなんですけど。
室内楽の合わせと取材でパリとウィーンの旅行を計画していた。
−−タイミング悪いときに咬まれましたね。抗生剤を少し余分に出しておきましょう。
こちらは、「足りなくなったらどうしよう。旅行保険にはいっておかなくちゃ」と算段している。抗生剤は薬局では買えないからだ。
−−とりあえず切開して消毒しますね。
女医さんは言って、足の中指と薬指、薬指と小指の間に麻酔の注射を打つ。
これはけっこう痛かった。
麻酔が効いてきたころを見計らってメスを当てる。
−−感染を防ぐためにちょっとごりごりやりますよ。これは痛いですか?
−−痛くはないですが、押されているような感じがします。
そんなやりとりの間にも、何だかチョキチョキと切り刻んでいるような音が聞こえる。 でも、全然痛くはない。不思議なもので、当該の指は何も感じないので、別の指を切開されているような気持ちになる。指、違うんじゃないですか? そんなわけはない。
−−麻酔が切れたら痛くなるんじゃないですか?
−−そうですねぇ、30分とか1時間したら痛くなりますね。
女医さんは人ごとのように(たしかに人ごとなんだが)のんびり答える。
大分チョキチョキやったあとで、消毒液らしきものふりかけ、絆創膏を貼ってくれる。
−−今のところ膿んだり腫れたりしていないみたいですけどね、感染しているかどうかは明日になってみないとわからないんですよね。だから、またいらしてください。
−−でも、出発前ですごく忙しいんですけど。
6月に刊行予定のグールド論の再校が出ていて、出発前日に戻さなければならなかった。室内楽の合わせの練習もしなければならず、荷物もまだ作っていなくて、ネズミに咬まれなくてもけっこう非常事態だったのだ。
−−だって、健康のほうが大事でしょう。
ま、そりゃそうだけど。
−−念のため、破傷風の注射もしておきましょうね。
紙を見せられる。破傷風は全部で3回打たなければならないらしい。2回目は5月、3回目は来年。覚えていられるだろうか。
−−5月の予定日があいているかどうかわからないんですが。
−−一週間ぐらいずれても大丈夫ですよ。
女医さんはこともなげに言う。
−−ご旅行はどのぐらい行ってらっしゃるのですか?
−−2週間です。
−−じゃ、明日いらしたら抗生物質を2週間分お出ししましょう。明朝の外来も私なんです。今晩は点滴をします。
うわっ、点滴は初体験だ。病院にお見舞いに行くと、皆さん、点滴の管を腕にとりつけられている。ぽとん、ぽとんと液が滴り落ちる。あれってどんな感覚なんだろう、痛くないんだろうか。いつも思っていた。
−−あのー、点滴ってしたことないんで不安なんですが。
処置をはじめた看護婦さんに言う。
−−じゃぁ、一度体験してみましょうね。
なるほど、うまい言い抜け方だ。
左肘の裏に注射針を差し込んでテープで止め、点滴の袋をとりつける。
ベッドの上から袋を吊るす。
ぽたり、ぽたり。何も感じない。身体が熱くなったりもしないし、抗生剤が体内にはいっていく感触もない。
なんだ、こんなものか。
拍子抜けした。
安心したので娘にメールを打つことにした。でも、左腕が折り曲げられているので打ちにくい。
「今抗生剤の点滴してる。足の指切開して消毒した。破傷風の注射もした。明日またこなきゃならないみたい。旅行やめようかなぁ」
点滴初体験はあっという間に終わり、看護婦さんから抗生物質を1日分渡される。
−−朝・昼・夜・寝る前の一日4回です。今晩のぶんは点滴しましたので、明日起きたら一錠飲んでから病院にいらしてください。
−−ずいぶん待つんじゃないですか?
−−診療は9時からで、受付開始は8時半です。その時刻にいらっしゃるとお待たせするかもしれませんから、8時すぎにいらしてみてください。
―−目覚ましかけなきゃ。
ところが、翌朝、目覚ましを止めてまた寝てしまい、起きたのが8時半すぎだったのである。待たされることを覚悟で、再校のゲラを持って病院に行く。
外科の待合室にはお年寄りがたくさん待っていた。自販機でコーヒーを買い、せっせとゲラの校正をしていたら、9時ちょっとすぎに名前を呼ばれた。
夜勤明けの女医さんは、髪をふんわりセットし、軽く化粧をして夜よりきれいだった。
−−指は痛くならなかったですか?
そういえば、切開のあと、一度も痛まなかった。痛み止めももらったのだが、使わなかった。この女医さん、よっぽど腕がいいのかな?
患部を調べた女医さん、「大丈夫そうですね」と言う。
−−それでは抗生物質をあと6日ぶんお出ししますので、きちんと飲みつづけてください。それで、旅行に行かれる前にもし熱が出たりしたらすぐに病院にいらしてください。
−−抗生物質は2週間ぶんじゃなかったのですか?
−−感染している場合は、です。今回は予防のためですから1週間ぶんしか出ません。 そういうことか。
早く呼ばれたのでほとんど読めなかったゲラをしまい、会計を待っていると肩を叩かれた。外国文学者のN先生である。阿佐ヶ谷に住んでいらっしゃるのだ。
−−妙なところでお会いしましたね。どこが悪いんですか?
−−ネズミに咬まれたんです。
ひととおり説明をくり返したところで、「先生はどうなさったのですか?」ときいてみた。
−−いや、頭を打ったもんですから。
−−もしかして、地震?
−−それなら言い訳がたつんですけどね、酔っぱらって転んだんですよ。
N先生は酒豪で知られる。けんかっぱやいのでも有名な先生だ。
おやおや。ネズミに咬まれた女と酔っぱらってころんだ男が病院で出会ってもしゃれになんないなぁ。
−−しかし、MRIを撮ってもらったおかげでどこもおかしくないことがわかって、かえってよかったですよ。しばらくはまだボケないで書けそうだ。
ご健筆を!
それから出発までの間、私は抗生物質をきちんきちんと飲みつづけたが、5日目が飛行機の中だったため、いったい朝・昼・晩・寝る前がどのタイミングなのかわからなくなり、結局2日ぶん余してしまった。
幸なことに一週間たっても高熱も発疹も出ず、ショック死もせずに無事旅行をつづけて帰ってきた。ウィーン旅行のことはまた書くことにしよう。
状況はこうである。
我が家のピアノ室と書斎は歩いて13歩の廊下で結ばれていることは、これまでもエッセイなどで書いてきたと思う。
その廊下の隅に、ネズミ取りがしかけてある。ボール紙にとりもちのようなべたべたする薬剤が塗ってあるものだ。
そこに、最近我が家の屋根裏に住み着いたネズミがひっかかった。
ボール紙は軽いものだから、ネズミがバタバタあばれるのに合わせて廊下の真ん中に出てきてしまったらしい。
とにかく、この廊下を書斎からピアノ室に向かって走っていた私の左足がネズミ取りのねばねばしたとりもちにひっかかり、同時に鋭い痛みを薬指に感じた。
最初は、ネズミ取りに何か金具がついているのかと思ったが、違った。円い目をしたネズミが我が足の指に咬みついている。
うわっ。
ネズミと人間サマが同じとりもちにひっかかってしまった。
私は必死の思いでネズミをふりほどき、ついでにとりもちから足をひきはがした。ネズミはまだバタバタあばれている。
明るいところで見たら、指から血が出ていた。
大変。
たしか、猫やネズミ、犬などに咬まれたらそこから病原菌がはいるかもしれないと言われている。どうすればよいのだろう? これがマムシだったら、すぐに咬まれた少し先をしばって血を吸い出すのだが。
娘にネットで調べてもらったら、まず石鹸でよく洗い、すぐ病院に行くように書いてある。放っておくと、まれにあとで熱を出したりショック死したりする例もあるらしい。
でも、病院といったって、もうどこも閉めているし。
傷口を洗うとともに足にへばりついたとりもちをこすりとり、オキシフルで消毒してバンドエイドを貼る。その間に、娘が救急医療センターに電話してくれるのだが、なかなかつながらない。
あきらめて、最寄りの総合病院の夜間診療に電話をした。
−−どうしました?
ときかれたので、「ネズミに咬まれました」と答える。
−−どんなネズミですか? 大きさは? 色は?
ネズミはまだ廊下のとりもちの上であばれているはずだが、見に行く勇気も起きない。 「普通の、灰色のネズミです」と答える。
−−それではなるべく早く来てください。
大急ぎで保険証を用意し、コートをはおって家を出る。
10分ほどで病院に着くと、夜間入り口からはいり、受付に行く。
深夜診療は会計が閉まってしまっているため、保険証を持って行っても1万円をデポジットしなければならないらしい。運良く持ち合わせがあったからよいが、本当の緊急の場合はどうしたらよいのだろう。
もっとも、パリでは病人はもっと邪険に扱われて、救急車を呼ぶと、運転手がまず病人に「運搬の代金を支払えるか」と尋ねるという。社会保険なしに救急病院など行こうものなら大変で、あとでウン百万の請求書が届くとか。
受付をすませて待合室にはいる。大病院の夜間診療といったら、ひっきりなしに救急車が到着し、緊急の施術が行われる・・・というようなシーンをテレビで見るが、まったくそんな緊迫した雰囲気ではなく、酔っぱらって担ぎ込まれたらしいおじさんが一人待っているだけだった。
ほどなく診察室に呼ばれ、若い女医さんが応対してくれる。
そのころにはもう血は止まっていて、女医さんがいくら調べても患部がよくわからないらしい。ネズミの歯はきっと小さかったのだろう。
−−何でネズミに咬まれたんですか?
シチュエーションがよくわからないらしい。
廊下にネズミ取りがあって、そこに足がひっかかって・・・。
−−どうして廊下にネズミ取りがあったんですか?
−−本当は隅に置いてあったのですが、ひっかかったネズミごと真ん中に出てきてしまって。
−−ああ、きっと暗かったんですね。
−−はい、それに急いでいて。
−−ネズミはどうしたんですか?
−−娘が外に放り出したらしいです。
−−あ、ネズミはね、ネズミ取りごと水につけるといいんですよ。
看護婦さんが言う。
−−ネズミや猫、犬などに咬まれると、一週間ぐらいたってから高熱が出たり、発疹が起きたりすることがあるんですよ。
女医さんからネットの情報と同じことを聞かされた。
−−でも、来週の火曜日には海外に出るんです。一週間後はパリなんですけど。
室内楽の合わせと取材でパリとウィーンの旅行を計画していた。
−−タイミング悪いときに咬まれましたね。抗生剤を少し余分に出しておきましょう。
こちらは、「足りなくなったらどうしよう。旅行保険にはいっておかなくちゃ」と算段している。抗生剤は薬局では買えないからだ。
−−とりあえず切開して消毒しますね。
女医さんは言って、足の中指と薬指、薬指と小指の間に麻酔の注射を打つ。
これはけっこう痛かった。
麻酔が効いてきたころを見計らってメスを当てる。
−−感染を防ぐためにちょっとごりごりやりますよ。これは痛いですか?
−−痛くはないですが、押されているような感じがします。
そんなやりとりの間にも、何だかチョキチョキと切り刻んでいるような音が聞こえる。 でも、全然痛くはない。不思議なもので、当該の指は何も感じないので、別の指を切開されているような気持ちになる。指、違うんじゃないですか? そんなわけはない。
−−麻酔が切れたら痛くなるんじゃないですか?
−−そうですねぇ、30分とか1時間したら痛くなりますね。
女医さんは人ごとのように(たしかに人ごとなんだが)のんびり答える。
大分チョキチョキやったあとで、消毒液らしきものふりかけ、絆創膏を貼ってくれる。
−−今のところ膿んだり腫れたりしていないみたいですけどね、感染しているかどうかは明日になってみないとわからないんですよね。だから、またいらしてください。
−−でも、出発前ですごく忙しいんですけど。
6月に刊行予定のグールド論の再校が出ていて、出発前日に戻さなければならなかった。室内楽の合わせの練習もしなければならず、荷物もまだ作っていなくて、ネズミに咬まれなくてもけっこう非常事態だったのだ。
−−だって、健康のほうが大事でしょう。
ま、そりゃそうだけど。
−−念のため、破傷風の注射もしておきましょうね。
紙を見せられる。破傷風は全部で3回打たなければならないらしい。2回目は5月、3回目は来年。覚えていられるだろうか。
−−5月の予定日があいているかどうかわからないんですが。
−−一週間ぐらいずれても大丈夫ですよ。
女医さんはこともなげに言う。
−−ご旅行はどのぐらい行ってらっしゃるのですか?
−−2週間です。
−−じゃ、明日いらしたら抗生物質を2週間分お出ししましょう。明朝の外来も私なんです。今晩は点滴をします。
うわっ、点滴は初体験だ。病院にお見舞いに行くと、皆さん、点滴の管を腕にとりつけられている。ぽとん、ぽとんと液が滴り落ちる。あれってどんな感覚なんだろう、痛くないんだろうか。いつも思っていた。
−−あのー、点滴ってしたことないんで不安なんですが。
処置をはじめた看護婦さんに言う。
−−じゃぁ、一度体験してみましょうね。
なるほど、うまい言い抜け方だ。
左肘の裏に注射針を差し込んでテープで止め、点滴の袋をとりつける。
ベッドの上から袋を吊るす。
ぽたり、ぽたり。何も感じない。身体が熱くなったりもしないし、抗生剤が体内にはいっていく感触もない。
なんだ、こんなものか。
拍子抜けした。
安心したので娘にメールを打つことにした。でも、左腕が折り曲げられているので打ちにくい。
「今抗生剤の点滴してる。足の指切開して消毒した。破傷風の注射もした。明日またこなきゃならないみたい。旅行やめようかなぁ」
点滴初体験はあっという間に終わり、看護婦さんから抗生物質を1日分渡される。
−−朝・昼・夜・寝る前の一日4回です。今晩のぶんは点滴しましたので、明日起きたら一錠飲んでから病院にいらしてください。
−−ずいぶん待つんじゃないですか?
−−診療は9時からで、受付開始は8時半です。その時刻にいらっしゃるとお待たせするかもしれませんから、8時すぎにいらしてみてください。
―−目覚ましかけなきゃ。
ところが、翌朝、目覚ましを止めてまた寝てしまい、起きたのが8時半すぎだったのである。待たされることを覚悟で、再校のゲラを持って病院に行く。
外科の待合室にはお年寄りがたくさん待っていた。自販機でコーヒーを買い、せっせとゲラの校正をしていたら、9時ちょっとすぎに名前を呼ばれた。
夜勤明けの女医さんは、髪をふんわりセットし、軽く化粧をして夜よりきれいだった。
−−指は痛くならなかったですか?
そういえば、切開のあと、一度も痛まなかった。痛み止めももらったのだが、使わなかった。この女医さん、よっぽど腕がいいのかな?
患部を調べた女医さん、「大丈夫そうですね」と言う。
−−それでは抗生物質をあと6日ぶんお出ししますので、きちんと飲みつづけてください。それで、旅行に行かれる前にもし熱が出たりしたらすぐに病院にいらしてください。
−−抗生物質は2週間ぶんじゃなかったのですか?
−−感染している場合は、です。今回は予防のためですから1週間ぶんしか出ません。 そういうことか。
早く呼ばれたのでほとんど読めなかったゲラをしまい、会計を待っていると肩を叩かれた。外国文学者のN先生である。阿佐ヶ谷に住んでいらっしゃるのだ。
−−妙なところでお会いしましたね。どこが悪いんですか?
−−ネズミに咬まれたんです。
ひととおり説明をくり返したところで、「先生はどうなさったのですか?」ときいてみた。
−−いや、頭を打ったもんですから。
−−もしかして、地震?
−−それなら言い訳がたつんですけどね、酔っぱらって転んだんですよ。
N先生は酒豪で知られる。けんかっぱやいのでも有名な先生だ。
おやおや。ネズミに咬まれた女と酔っぱらってころんだ男が病院で出会ってもしゃれになんないなぁ。
−−しかし、MRIを撮ってもらったおかげでどこもおかしくないことがわかって、かえってよかったですよ。しばらくはまだボケないで書けそうだ。
ご健筆を!
それから出発までの間、私は抗生物質をきちんきちんと飲みつづけたが、5日目が飛行機の中だったため、いったい朝・昼・晩・寝る前がどのタイミングなのかわからなくなり、結局2日ぶん余してしまった。
幸なことに一週間たっても高熱も発疹も出ず、ショック死もせずに無事旅行をつづけて帰ってきた。ウィーン旅行のことはまた書くことにしよう。
原智恵子さんのベヒシュタイン
CD61枚、本53冊
2月6日と8日、福島県立美術館と東京の如水会館でトーク・コンサートに出演したときの物販の成果である。聴衆はそれぞれ200名と130名。3人弱に一人は何か買ってくださったことになる。
ご来場いただいた方、ご購入いただいた方、誠にありがとうございました。
福島美術館のほうは、昨年亡くなった造型作家・伊砂利彦先生の追悼回顧展での演奏だった。伊砂先生は、ドビュッシーの『前奏曲集第1巻』『同第 2巻』にヒントを得た24枚のパネルを制作されている。それからの作品をご紹介しつつ、当該の前奏曲を弾く試みを、浜離宮朝日ホールや京都芸術センター、 そしてパリの日本文化会館でもおこなってきた。
『前奏曲集』のパネルは京都の近代美術家に収められているか、福島の美術館にも小型のパネルが24枚所蔵されている。今回は展示室の壁にそのパネルを掲げ、前にピアノを置いて演奏しつつ語った。
以下にトークの原稿を転載する。
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*演奏:『映像第2集』より「しかも月は廃寺に落ちる」を弾く。
皆様、こんにちわ。今日は伊砂利彦先生がドビュッシーをテーマに制作された作品をご紹介しながら、当該作品を演奏したいと思います。
今弾きましたのは、クロード・ドビュッシーの『映像第2集』から第2曲「今や月は廃寺に落ちる」です。
もう40年前になります。フランス留学から帰国した私は、東京でデビューリサタイルを開き、NHK−FMで『映像第2集』を録音しました。その 前の番組は邦楽の時間で、尺八の演奏が流れていたのですが、その直後に私の演奏するドビュッシーの作品が流れたとき、まったく違和感がないのにびっくりし ました。
それもそのはず、「今や月・・・・」の自筆原稿には、ちょうどこの部分に( とピアノで示しながら) 「ブッダ」と書きつけられていました。
また、『映像』の第3曲「金色の魚」のイメージ源は、ドビュッシーが所有していた金蒔絵の鯉だと言われています。
ドビュッシーは東洋の美術にヒントを得て制作しましたが、伊砂利彦先生はドビュッシーやムソルグスキーなど西洋音楽に刺激を受けてすばらしい作品の数々を創られました。
伊砂利彦先生は1924年、京都の三代つづいた友禅の染め物職人の家に生まれました。ドビュッシーが自然の描写を創作のよりどころとしたよう に、伊砂先生もまた、近代陶芸家の第一人者である富本憲吉に出会い、自然の写生から優れた模様をつくりだす姿勢を学びます。出発点で彫刻を学んだ経験を活 かし、対象を徹底的に「視る」ことによって形態的な特性を抽出し、伝統的な技法を駆使しながら造形していくという手法を追求していくことになります。
初期は蝋纈染めが中心でしたが、まもなく型染を主として手がけるようになります。
伊砂先生のテーマは10年周期で変化していきます。1960年代は「松シリーズ」でした。ついで1970年に「瀬」を発表してから「水シリーズ」がはじまります。
水流を上から眺めるだけではなく、水面近くまで目線を下げ、伊砂先生自身の言葉によるなら「水の表面に神経を集中し、型紙の型紙の制約に合うパターンがあらわれるのを待って描き留める」作業に没頭するあまり、一時的な視力障害を起こしたほどでした。
*「水の反映」を演奏する
伊豆の河津七滝に通い、滝口に落ちる水の一瞬の変化をパターンに置き換える作業に熱中していたとき、大阪でアレクシス・ワイセンベルクのリサイ タルでムソルグスキー『展覧会の絵』を聴いた先生は、「演奏された音がはっきりしたタッチでかたちになって頭に眼に飛び込んでくる」という体験をします。 ここで1ヶ月の間に一気呵成に制作されたのが、「ムソルグスキー『展覧会の絵』のイメージ」でした。
その後「音楽シリーズ」をはじめた伊砂先生は、まずドビュッシーの『海』にもとづく大作を制作しますが、規模が大きすぎてうまくいかず、もう少し短い作品を求めて『前奏曲集第1巻』にもとづく12枚のパネルを制作し、1981年に個展で発表しました。
型絵染の技法につきましては、プロのピアニストにしかピアノの奥義がわからないのと同じように、素人の私どもには表面的なことしかわかりませんが、伊砂先生のご令嬢に伺ったことを基に、ごく初歩的なところだけご説明致します。
模様の形に型紙を切り、和紙の上に置いて糊を上からヘラで塗り、型紙を取り去ると模様の形に糊のついていないところができます。その部分を墨濃淡、または絵の具等で染めて糊を洗い流すと型紙の形の模様になります。
伊砂利彦は音楽家でも音楽学者でもありません。彼はドビュッシーの音楽をひたすら聞き込み、タイトルからイメージをふくらませて制作しました。 それぞれの前奏曲のタイトルの裏にあるもの、作曲にまつわるエピソードなどは何も知りません。しかし、実際に作品を前にして私が驚くのは、伊砂がそうした 予備知識なしに見事に作品の核心をとらえ、ドビュッシーの音楽思想の深奥にまで達していることです。
たとえば第2曲「帆」は二重の意味を含んでいます。港に停泊するヨットの三角の帆が風にゆらいでいるところとも、ロイ=フラーというミュージッ クホールのダンサーが透明なヴェールと照明を巧みに使って踊っているさまとも。伊砂は三角形の型を微妙にずらすことによって濃淡をつけ、渦をまく五線譜 (黒い細い線)で帆の間を流れる風を表現しています。
毛筆の一筆書きのような見事な線をきざんでいるのは「アナカプリの丘」です。伊砂先生は、染める段階になると職人の仕事になるが、木炭でデッサン し、その線を切り出すときにもっとも芸術的な霊感が働くと言っています。霊感が湧き出るときは手が勝手に動くとも言っています。この作品の線がそれを物 語っています。
いっぽう「雪の上の足跡」では、ドビュッシーが楽譜に書きつけた心象風景”Ce rythme doit avoir la valeur sonore d'un fond de paysage triste et glace"を木炭の形をそのまま残した型紙を微妙な角度で並べることによって表出しています。
ドビュッシーと伊砂先生の親和性をもっともあらわしているのは、「沈める寺」でしょう。伊砂利彦が水のさまざまなヴァリエーションを描きつづけ たのと同じように、ドビュッシーもまた水のさまざまな様相を音にしました。前奏曲だけでも、帆、雪の上の足跡、西風の見たもの、霧、オンディーヌ、そして 沈める寺と6曲もあります。
ご存じのように『沈める寺』は、ブルターニュの伝説にもとづいています。悪魔と結託した娘によって海の底に沈んでしまったイスの町。水辺に立つ と今も波の間に間に僧侶の読経の声と鐘の音が漏れきこえてくるといいます。曲は、いったん教会堂がせりあがり、また沈み行くさまをあらわしています。伊砂先生は、沈む寺が浮き上がる時の予兆の水の騒ぎを表現したと語っています。水のゆらぎを思わせるバックは、和紙全体に糊を置き、乾燥させてひび割れたとこ ろに薄い色を染めて洗うことにより、見事な効果を出しています。
*前奏曲を抜粋で演奏
1984年には同第2巻も発表されています。この回顧展のパンフレットに使用されている第1曲「霧」は、「スキーで体験した霧の音」を表現した といいます。「信州横手山から志賀高原へのコースを誤って草津側へ下り、誤りに気づいて引き返す時にわかに霧に包まれ、その時の恐怖の中で聴いた霧の音。 霧の中をまた一段と濃い霧が流れていく」
第8曲「水の精」は傑作ですね。原曲はロマン派の作家ド・ラ・モット・フケーの『ウンディーネ』をもとにイギリス20世紀初頭のイラストレー ター、アーサー・ラッカムが制作した絵本にもとづいています。「美しい妖精が水から現れる予兆の水の騒ぎ出す表情」と伊砂先生は語っています。
*2曲をつづけて演奏
伊砂利彦は伝統的な型絵染のテクニックを駆使しながら、彼のアイディアはすぐれて立体的であり、むしろ抽象的ですらあります。いっぽうドビュッ シーは西洋音楽の手法を使い、西洋の楽器を使っているにもかかわらず、彼の音楽は平面的でスタティックである。この西洋文化と東洋文化の二重の交換は、私 には大変興味深いものに思われます。
また、いくらドビュッシーがスタティックといっても、武満徹の作品と並べて聴くとやはり立体的に聞こえるし、ドビュッシーの音楽に流れる時間 は、ゆったりとしながらも確実に前に進んでいます。いっぽうで伊砂利彦の作品は、いくら型絵染作品にしては立体的といっても、やはりフランス人にとっては 平面的な美を誇っているというふうに理解されるでしょう。このあたりも面白いです。
それでは、最後に伊砂先生の「月之道」にちなんで「月の光」を演奏します。
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以上が福島県立美術館でのトーク原稿である。必ずしもこの通りにしゃべったわけではないが、おおよその雰囲気は感じとっていただけると思う。
美術館にはピアノがないので、シゲル・カワイ・モデルのセミグランドを運んでいただいた。このピアノはとても色彩感豊かでよく響く。ところで展 示室も残響が多いスペースだったので、ペダルを少なめにしたりタッチをスタッカート気味にしたりして、何とか響きをまとめることができたように思う。
2月8日は一橋大学OB会主催による週一回のフォーラムで、竹橋の如水会館の2階でおこなわれた。企画はドイツ文学者で音楽評論家の田辺秀樹さ ん。お顔が広い田辺さんだから,毎週そうそうたる顔ぶれが講師をつとめていらっしゃる。そこに入れていただけるだけでも光栄だった。
ここには、原智恵子も弾いたという1923年製のベヒシュタインが置かれている。当日会場で配られたパンフレットを紹介しよう。
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*兼松講堂ものがたり
ベヒシュタインピアノ、原智恵子 そして兼松講堂
時は太平洋戦争の敗色が漂い始めた頃・・・。開戦当初の戦意高揚のスローガン「撃ちてし止まん」もいつしか「一億玉砕」に変わり、昭和18年、 学生の徴兵猶予が停止され学徒出陣が始まった。翌、昭和19年(1944)10月、この兼松講堂において本学学生の出征学徒壮行会が行なわれた。
2、3の教授の壮行の辞に続いて演壇に立たれた山口茂教授の力強い第一声は「諸君、どうか死なないでくれ…。」学生たちは一瞬我が耳を疑い、場 内は水を打ったような静けさになったという。戦場で国のために死ぬことが日本男子の名誉とされ、生きて帰るなどとは口が裂けても言えなかった時代である。
「一億玉砕なぞと、死にたい奴は死なせたらよい。しかし諸君には生きていてもらわなければ困る。戦争に勝っても負けても、国家が直ちに必要とするのは諸君なのだ・・・。」
この壮行会でピアノ演奏をしたのが、日本人ピアニストの草分けとしてショパンコンクール(1937)に初めて入賞し「特別聴衆賞」も得て、世界から「東洋の奇跡」と称えられた国際的な名ピアニスト・原智恵子(1914〜2001)だった。
彼女は13歳でパリに渡り、ラザール・レヴィ、コルト−、ルービンシュタインなどに師事、コンセルヴァトアール(パリ音楽院)を首席で卒業しピアニストとしてのキャリアを着実に歩み始めたちょうどその矢先、戦争のため帰国を余儀なくされていた。
帰国後は、最も著名な演奏家の一人として、戦時色濃厚な中、芸術を求めて止まない人々の期待に応えて演奏を重ね、表現の自由が極度に制限された中でも、芸術としての本来持つ自由な精神を決して失わなかった意志の人でもあった。
実は、当初、彼女は出征壮行会なら出演しないと固辞したと伝えられている。とこうが、当時日本に3台しかないといわれていたドイツ製べヒシュタインピアノがあると聞いて、まさかと驚き、「そのピアノを弾かせていただくために・・・」ということで演奏が実現した。
山口茂教授の壮行の辞に引きつづいて原智恵子がピアノを演奏・・・。そして演奏が終ると自ら進んで演壇に立ち挨拶した。
「本日は思いもよらぬ素晴らしい会にお招きをいただき感激しております。ただいまは戦(いくさ)に向かう若者の情熱を讃えたショパンのポロネーズ を演奏いたしました。行く日があれば必ず帰る日もあるはずです。ご凱旋のときにはぜひともまたお招きをいただきたい。みなさま、おすこやかに・・・」
この美貌のピアニストは両手を前に固く結び、両眼からとめどもなく溢れ出る涙は頬を伝って流れ落ちていた。
この壮行会の翌日にはもう憲兵が来校し、教授の話を聞いた学生に内容を聞きまわっていたという。
この翌月11月3日、兼松講堂では創立記念を兼ねた文化厚生会(=文化祭)が行なわれ、ふたたび原智恵子が演奏している。
そしてこの日を境に、べヒシュタインピアノは片付けられて座席も取り外され、工作機械類が憲兵と軍人に先導されて次々とトラックで運び込まれ、 兼松講堂は軍需工場となった。いよいよわが国も、そして「東京産業大学」と改称させられていた東京商科大学(現一橋大学)兼松講堂も、終戦までの厳しい道 のりを歩むことになる・・・。
そして幾星霜・・・。2005年7月18日、70数年ぶりに大改修された兼松講堂での第1回「くにたち兼松講堂 音楽の森コンサート」“ピアノ 四重奏の夕べ−上田京・恵谷真紀子とウィーン・フィルの仲間たち”を聴かれた往年の卒業生Eさんは、当日のアンケートにこう書いておられる。
「学徒出陣の思い出が残る兼松講堂が、今、こうして地元の方々に愛されているのは本当に嬉しい・・・。」 (了)
〔注〕この稿は、一橋大学同窓会誌「如水会々報」に寄稿した田中秀一さん(1949年専門部卒、故人)の鮮烈な思い出や田澤義彦さん(1950年 学部卒)の証言などをまとめた、一橋大学広報誌『HQ』Vol.3(2004年春号)「記憶の中の兼松講堂−−激動の昭和史をみつめてきた講堂2」に依拠します。
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1853年にベルリンに設立されたべヒシュタイン社のピアノは、リストやドビュッシー、名ピアニストのシユナーベルも愛用したという。
兼松講堂にあったべヒシュタインのグランドピアノは1923年製であり、戦前・戦後の一時期まで原智恵子、安川加寿子などわが国の代表的ピアニストがたびたび演奏している。
以後半世紀、ひっそりと大学の片隅で眠っていたが、2003年、如水会(一橋大学の同窓会組織)によって修復され、みごとに蘇った。現在は如水会館におかれ、「如水サロンコンサート」などで使用されている。
如水会館のプログラムは「フランスのエスプリ クープランとドビュッシー」というタイトルで,クープランの「パッサカーユ」で開始し,「百合の 花ひらく」「葦」「恋の鶯」「フランスのフォリア・またはドミノ」などを解説つきで演奏し,ついでドビュッシーとクープランの関係についてお話しながら 「2つのアラベスク」「月の光」「前奏曲集」第一巻を抜粋で弾いて行った。
ひと口にフランスのエスプリなどと言ってもきれいごとではない。フランスが最も栄えていたルイ14世時代の宮廷。料理長は注文した鮮魚が定刻に 到着しないだけで責任をとって自殺し,それでも宴会は何事もなかったようにとりおこなわれる。貴婦人は身内に不幸があってもおくびにも出さず,洗練された 会話で周囲を楽しませる。
宮廷作曲家のクープランは,やんごとなき人々を音楽で揶揄する。今では誰の肖像だかわからなくなったが,彼のクラヴサン曲には「とげとげしい女」「そしらぬ顔であざけり笑う女」など,とても意地悪なタイトルが多い。「フランスのフォーリアまたはドミノ」も,一人の清純な女性が宮廷生活の悪弊に 染まって身を持ち崩していく年代記ととれないこともない。その辛辣な批評精神はドビュッシーにも受け継がれ,たとえば「ミンストレル」という曲の中間部 には「あざ笑うように」という指示が書きつけられている・・・などというお話をする。
楽器としてはレンタルのヤマハC3が演奏用に用意されていたが,クープランのような古典はベヒシュタインのほうがよいかもしれないとのことだった。そして,ベヒシュタインで弾きはじめてみると,あまりに吸いつくようなタッチで,思っていることが全部伝えられるのが心地よく,「月の光」「亜麻色の 髪の乙女」など数曲のほかは全部ベヒシュタインで弾いてしまったのだ。
私は割合に楽器に敏感なほうで,タッチや調律・調整が合わないと微妙なところでつっかかってしまうのだが,このベヒシュタインに関してはすみずみまで弾き方が適合し,誠に幸せな時間だった。
とりわけ,原さんが愛奏した「百合の花ひらく」と「葦」を弾いたときは感慨深いものがあった。私が小さいころ,よくラジオから原さんの演奏でこ の曲が流れてきたからだ。 父は私に「原智恵子というピアニストはすごい才能だが,どうもあまり日本の楽壇とうまく行っていていない。その悲哀のようなも のが演奏に出ている」と話してくれた。
そうした個人的な感情が演奏に反映されるかどうかは疑問だが,原さんが日本であまり居心地のよい思いをしていなかったことは確かだ。原さんの評伝では、その原因が我が恩師安川加壽子先生にあるかのような書きぶりで、それには同意できないのだが、日本特有の村社会に原さんは適応できず、一方で安川先生はすっと溶け込めたというのは事実だろう。しかし,安川先生がストレスを感じていなかったわけではなく,それはずっとあとになって宿痾のリウマチという形で あらわれ,先生のお体を蝕んでいったのだ、と勝手に解釈している。
※写真は、如水会館のベヒンシュタインです。

2月6日と8日、福島県立美術館と東京の如水会館でトーク・コンサートに出演したときの物販の成果である。聴衆はそれぞれ200名と130名。3人弱に一人は何か買ってくださったことになる。
ご来場いただいた方、ご購入いただいた方、誠にありがとうございました。
福島美術館のほうは、昨年亡くなった造型作家・伊砂利彦先生の追悼回顧展での演奏だった。伊砂先生は、ドビュッシーの『前奏曲集第1巻』『同第 2巻』にヒントを得た24枚のパネルを制作されている。それからの作品をご紹介しつつ、当該の前奏曲を弾く試みを、浜離宮朝日ホールや京都芸術センター、 そしてパリの日本文化会館でもおこなってきた。
『前奏曲集』のパネルは京都の近代美術家に収められているか、福島の美術館にも小型のパネルが24枚所蔵されている。今回は展示室の壁にそのパネルを掲げ、前にピアノを置いて演奏しつつ語った。
以下にトークの原稿を転載する。
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*演奏:『映像第2集』より「しかも月は廃寺に落ちる」を弾く。
皆様、こんにちわ。今日は伊砂利彦先生がドビュッシーをテーマに制作された作品をご紹介しながら、当該作品を演奏したいと思います。
今弾きましたのは、クロード・ドビュッシーの『映像第2集』から第2曲「今や月は廃寺に落ちる」です。
もう40年前になります。フランス留学から帰国した私は、東京でデビューリサタイルを開き、NHK−FMで『映像第2集』を録音しました。その 前の番組は邦楽の時間で、尺八の演奏が流れていたのですが、その直後に私の演奏するドビュッシーの作品が流れたとき、まったく違和感がないのにびっくりし ました。
それもそのはず、「今や月・・・・」の自筆原稿には、ちょうどこの部分に( とピアノで示しながら) 「ブッダ」と書きつけられていました。
また、『映像』の第3曲「金色の魚」のイメージ源は、ドビュッシーが所有していた金蒔絵の鯉だと言われています。
ドビュッシーは東洋の美術にヒントを得て制作しましたが、伊砂利彦先生はドビュッシーやムソルグスキーなど西洋音楽に刺激を受けてすばらしい作品の数々を創られました。
伊砂利彦先生は1924年、京都の三代つづいた友禅の染め物職人の家に生まれました。ドビュッシーが自然の描写を創作のよりどころとしたよう に、伊砂先生もまた、近代陶芸家の第一人者である富本憲吉に出会い、自然の写生から優れた模様をつくりだす姿勢を学びます。出発点で彫刻を学んだ経験を活 かし、対象を徹底的に「視る」ことによって形態的な特性を抽出し、伝統的な技法を駆使しながら造形していくという手法を追求していくことになります。
初期は蝋纈染めが中心でしたが、まもなく型染を主として手がけるようになります。
伊砂先生のテーマは10年周期で変化していきます。1960年代は「松シリーズ」でした。ついで1970年に「瀬」を発表してから「水シリーズ」がはじまります。
水流を上から眺めるだけではなく、水面近くまで目線を下げ、伊砂先生自身の言葉によるなら「水の表面に神経を集中し、型紙の型紙の制約に合うパターンがあらわれるのを待って描き留める」作業に没頭するあまり、一時的な視力障害を起こしたほどでした。
*「水の反映」を演奏する
伊豆の河津七滝に通い、滝口に落ちる水の一瞬の変化をパターンに置き換える作業に熱中していたとき、大阪でアレクシス・ワイセンベルクのリサイ タルでムソルグスキー『展覧会の絵』を聴いた先生は、「演奏された音がはっきりしたタッチでかたちになって頭に眼に飛び込んでくる」という体験をします。 ここで1ヶ月の間に一気呵成に制作されたのが、「ムソルグスキー『展覧会の絵』のイメージ」でした。
その後「音楽シリーズ」をはじめた伊砂先生は、まずドビュッシーの『海』にもとづく大作を制作しますが、規模が大きすぎてうまくいかず、もう少し短い作品を求めて『前奏曲集第1巻』にもとづく12枚のパネルを制作し、1981年に個展で発表しました。
型絵染の技法につきましては、プロのピアニストにしかピアノの奥義がわからないのと同じように、素人の私どもには表面的なことしかわかりませんが、伊砂先生のご令嬢に伺ったことを基に、ごく初歩的なところだけご説明致します。
模様の形に型紙を切り、和紙の上に置いて糊を上からヘラで塗り、型紙を取り去ると模様の形に糊のついていないところができます。その部分を墨濃淡、または絵の具等で染めて糊を洗い流すと型紙の形の模様になります。
伊砂利彦は音楽家でも音楽学者でもありません。彼はドビュッシーの音楽をひたすら聞き込み、タイトルからイメージをふくらませて制作しました。 それぞれの前奏曲のタイトルの裏にあるもの、作曲にまつわるエピソードなどは何も知りません。しかし、実際に作品を前にして私が驚くのは、伊砂がそうした 予備知識なしに見事に作品の核心をとらえ、ドビュッシーの音楽思想の深奥にまで達していることです。
たとえば第2曲「帆」は二重の意味を含んでいます。港に停泊するヨットの三角の帆が風にゆらいでいるところとも、ロイ=フラーというミュージッ クホールのダンサーが透明なヴェールと照明を巧みに使って踊っているさまとも。伊砂は三角形の型を微妙にずらすことによって濃淡をつけ、渦をまく五線譜 (黒い細い線)で帆の間を流れる風を表現しています。
毛筆の一筆書きのような見事な線をきざんでいるのは「アナカプリの丘」です。伊砂先生は、染める段階になると職人の仕事になるが、木炭でデッサン し、その線を切り出すときにもっとも芸術的な霊感が働くと言っています。霊感が湧き出るときは手が勝手に動くとも言っています。この作品の線がそれを物 語っています。
いっぽう「雪の上の足跡」では、ドビュッシーが楽譜に書きつけた心象風景”Ce rythme doit avoir la valeur sonore d'un fond de paysage triste et glace"を木炭の形をそのまま残した型紙を微妙な角度で並べることによって表出しています。
ドビュッシーと伊砂先生の親和性をもっともあらわしているのは、「沈める寺」でしょう。伊砂利彦が水のさまざまなヴァリエーションを描きつづけ たのと同じように、ドビュッシーもまた水のさまざまな様相を音にしました。前奏曲だけでも、帆、雪の上の足跡、西風の見たもの、霧、オンディーヌ、そして 沈める寺と6曲もあります。
ご存じのように『沈める寺』は、ブルターニュの伝説にもとづいています。悪魔と結託した娘によって海の底に沈んでしまったイスの町。水辺に立つ と今も波の間に間に僧侶の読経の声と鐘の音が漏れきこえてくるといいます。曲は、いったん教会堂がせりあがり、また沈み行くさまをあらわしています。伊砂先生は、沈む寺が浮き上がる時の予兆の水の騒ぎを表現したと語っています。水のゆらぎを思わせるバックは、和紙全体に糊を置き、乾燥させてひび割れたとこ ろに薄い色を染めて洗うことにより、見事な効果を出しています。
*前奏曲を抜粋で演奏
1984年には同第2巻も発表されています。この回顧展のパンフレットに使用されている第1曲「霧」は、「スキーで体験した霧の音」を表現した といいます。「信州横手山から志賀高原へのコースを誤って草津側へ下り、誤りに気づいて引き返す時にわかに霧に包まれ、その時の恐怖の中で聴いた霧の音。 霧の中をまた一段と濃い霧が流れていく」
第8曲「水の精」は傑作ですね。原曲はロマン派の作家ド・ラ・モット・フケーの『ウンディーネ』をもとにイギリス20世紀初頭のイラストレー ター、アーサー・ラッカムが制作した絵本にもとづいています。「美しい妖精が水から現れる予兆の水の騒ぎ出す表情」と伊砂先生は語っています。
*2曲をつづけて演奏
伊砂利彦は伝統的な型絵染のテクニックを駆使しながら、彼のアイディアはすぐれて立体的であり、むしろ抽象的ですらあります。いっぽうドビュッ シーは西洋音楽の手法を使い、西洋の楽器を使っているにもかかわらず、彼の音楽は平面的でスタティックである。この西洋文化と東洋文化の二重の交換は、私 には大変興味深いものに思われます。
また、いくらドビュッシーがスタティックといっても、武満徹の作品と並べて聴くとやはり立体的に聞こえるし、ドビュッシーの音楽に流れる時間 は、ゆったりとしながらも確実に前に進んでいます。いっぽうで伊砂利彦の作品は、いくら型絵染作品にしては立体的といっても、やはりフランス人にとっては 平面的な美を誇っているというふうに理解されるでしょう。このあたりも面白いです。
それでは、最後に伊砂先生の「月之道」にちなんで「月の光」を演奏します。
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以上が福島県立美術館でのトーク原稿である。必ずしもこの通りにしゃべったわけではないが、おおよその雰囲気は感じとっていただけると思う。
美術館にはピアノがないので、シゲル・カワイ・モデルのセミグランドを運んでいただいた。このピアノはとても色彩感豊かでよく響く。ところで展 示室も残響が多いスペースだったので、ペダルを少なめにしたりタッチをスタッカート気味にしたりして、何とか響きをまとめることができたように思う。
2月8日は一橋大学OB会主催による週一回のフォーラムで、竹橋の如水会館の2階でおこなわれた。企画はドイツ文学者で音楽評論家の田辺秀樹さ ん。お顔が広い田辺さんだから,毎週そうそうたる顔ぶれが講師をつとめていらっしゃる。そこに入れていただけるだけでも光栄だった。
ここには、原智恵子も弾いたという1923年製のベヒシュタインが置かれている。当日会場で配られたパンフレットを紹介しよう。
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*兼松講堂ものがたり
ベヒシュタインピアノ、原智恵子 そして兼松講堂
時は太平洋戦争の敗色が漂い始めた頃・・・。開戦当初の戦意高揚のスローガン「撃ちてし止まん」もいつしか「一億玉砕」に変わり、昭和18年、 学生の徴兵猶予が停止され学徒出陣が始まった。翌、昭和19年(1944)10月、この兼松講堂において本学学生の出征学徒壮行会が行なわれた。
2、3の教授の壮行の辞に続いて演壇に立たれた山口茂教授の力強い第一声は「諸君、どうか死なないでくれ…。」学生たちは一瞬我が耳を疑い、場 内は水を打ったような静けさになったという。戦場で国のために死ぬことが日本男子の名誉とされ、生きて帰るなどとは口が裂けても言えなかった時代である。
「一億玉砕なぞと、死にたい奴は死なせたらよい。しかし諸君には生きていてもらわなければ困る。戦争に勝っても負けても、国家が直ちに必要とするのは諸君なのだ・・・。」
この壮行会でピアノ演奏をしたのが、日本人ピアニストの草分けとしてショパンコンクール(1937)に初めて入賞し「特別聴衆賞」も得て、世界から「東洋の奇跡」と称えられた国際的な名ピアニスト・原智恵子(1914〜2001)だった。
彼女は13歳でパリに渡り、ラザール・レヴィ、コルト−、ルービンシュタインなどに師事、コンセルヴァトアール(パリ音楽院)を首席で卒業しピアニストとしてのキャリアを着実に歩み始めたちょうどその矢先、戦争のため帰国を余儀なくされていた。
帰国後は、最も著名な演奏家の一人として、戦時色濃厚な中、芸術を求めて止まない人々の期待に応えて演奏を重ね、表現の自由が極度に制限された中でも、芸術としての本来持つ自由な精神を決して失わなかった意志の人でもあった。
実は、当初、彼女は出征壮行会なら出演しないと固辞したと伝えられている。とこうが、当時日本に3台しかないといわれていたドイツ製べヒシュタインピアノがあると聞いて、まさかと驚き、「そのピアノを弾かせていただくために・・・」ということで演奏が実現した。
山口茂教授の壮行の辞に引きつづいて原智恵子がピアノを演奏・・・。そして演奏が終ると自ら進んで演壇に立ち挨拶した。
「本日は思いもよらぬ素晴らしい会にお招きをいただき感激しております。ただいまは戦(いくさ)に向かう若者の情熱を讃えたショパンのポロネーズ を演奏いたしました。行く日があれば必ず帰る日もあるはずです。ご凱旋のときにはぜひともまたお招きをいただきたい。みなさま、おすこやかに・・・」
この美貌のピアニストは両手を前に固く結び、両眼からとめどもなく溢れ出る涙は頬を伝って流れ落ちていた。
この壮行会の翌日にはもう憲兵が来校し、教授の話を聞いた学生に内容を聞きまわっていたという。
この翌月11月3日、兼松講堂では創立記念を兼ねた文化厚生会(=文化祭)が行なわれ、ふたたび原智恵子が演奏している。
そしてこの日を境に、べヒシュタインピアノは片付けられて座席も取り外され、工作機械類が憲兵と軍人に先導されて次々とトラックで運び込まれ、 兼松講堂は軍需工場となった。いよいよわが国も、そして「東京産業大学」と改称させられていた東京商科大学(現一橋大学)兼松講堂も、終戦までの厳しい道 のりを歩むことになる・・・。
そして幾星霜・・・。2005年7月18日、70数年ぶりに大改修された兼松講堂での第1回「くにたち兼松講堂 音楽の森コンサート」“ピアノ 四重奏の夕べ−上田京・恵谷真紀子とウィーン・フィルの仲間たち”を聴かれた往年の卒業生Eさんは、当日のアンケートにこう書いておられる。
「学徒出陣の思い出が残る兼松講堂が、今、こうして地元の方々に愛されているのは本当に嬉しい・・・。」 (了)
〔注〕この稿は、一橋大学同窓会誌「如水会々報」に寄稿した田中秀一さん(1949年専門部卒、故人)の鮮烈な思い出や田澤義彦さん(1950年 学部卒)の証言などをまとめた、一橋大学広報誌『HQ』Vol.3(2004年春号)「記憶の中の兼松講堂−−激動の昭和史をみつめてきた講堂2」に依拠します。
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1853年にベルリンに設立されたべヒシュタイン社のピアノは、リストやドビュッシー、名ピアニストのシユナーベルも愛用したという。
兼松講堂にあったべヒシュタインのグランドピアノは1923年製であり、戦前・戦後の一時期まで原智恵子、安川加寿子などわが国の代表的ピアニストがたびたび演奏している。
以後半世紀、ひっそりと大学の片隅で眠っていたが、2003年、如水会(一橋大学の同窓会組織)によって修復され、みごとに蘇った。現在は如水会館におかれ、「如水サロンコンサート」などで使用されている。
如水会館のプログラムは「フランスのエスプリ クープランとドビュッシー」というタイトルで,クープランの「パッサカーユ」で開始し,「百合の 花ひらく」「葦」「恋の鶯」「フランスのフォリア・またはドミノ」などを解説つきで演奏し,ついでドビュッシーとクープランの関係についてお話しながら 「2つのアラベスク」「月の光」「前奏曲集」第一巻を抜粋で弾いて行った。
ひと口にフランスのエスプリなどと言ってもきれいごとではない。フランスが最も栄えていたルイ14世時代の宮廷。料理長は注文した鮮魚が定刻に 到着しないだけで責任をとって自殺し,それでも宴会は何事もなかったようにとりおこなわれる。貴婦人は身内に不幸があってもおくびにも出さず,洗練された 会話で周囲を楽しませる。
宮廷作曲家のクープランは,やんごとなき人々を音楽で揶揄する。今では誰の肖像だかわからなくなったが,彼のクラヴサン曲には「とげとげしい女」「そしらぬ顔であざけり笑う女」など,とても意地悪なタイトルが多い。「フランスのフォーリアまたはドミノ」も,一人の清純な女性が宮廷生活の悪弊に 染まって身を持ち崩していく年代記ととれないこともない。その辛辣な批評精神はドビュッシーにも受け継がれ,たとえば「ミンストレル」という曲の中間部 には「あざ笑うように」という指示が書きつけられている・・・などというお話をする。
楽器としてはレンタルのヤマハC3が演奏用に用意されていたが,クープランのような古典はベヒシュタインのほうがよいかもしれないとのことだった。そして,ベヒシュタインで弾きはじめてみると,あまりに吸いつくようなタッチで,思っていることが全部伝えられるのが心地よく,「月の光」「亜麻色の 髪の乙女」など数曲のほかは全部ベヒシュタインで弾いてしまったのだ。
私は割合に楽器に敏感なほうで,タッチや調律・調整が合わないと微妙なところでつっかかってしまうのだが,このベヒシュタインに関してはすみずみまで弾き方が適合し,誠に幸せな時間だった。
とりわけ,原さんが愛奏した「百合の花ひらく」と「葦」を弾いたときは感慨深いものがあった。私が小さいころ,よくラジオから原さんの演奏でこ の曲が流れてきたからだ。 父は私に「原智恵子というピアニストはすごい才能だが,どうもあまり日本の楽壇とうまく行っていていない。その悲哀のようなも のが演奏に出ている」と話してくれた。
そうした個人的な感情が演奏に反映されるかどうかは疑問だが,原さんが日本であまり居心地のよい思いをしていなかったことは確かだ。原さんの評伝では、その原因が我が恩師安川加壽子先生にあるかのような書きぶりで、それには同意できないのだが、日本特有の村社会に原さんは適応できず、一方で安川先生はすっと溶け込めたというのは事実だろう。しかし,安川先生がストレスを感じていなかったわけではなく,それはずっとあとになって宿痾のリウマチという形で あらわれ,先生のお体を蝕んでいったのだ、と勝手に解釈している。
※写真は、如水会館のベヒンシュタインです。


